川又千秋 時間帝国 目 次  前 話   紫月の旅人  第一話   エルヴァの道  第二話   西の都  第三話   少年鼓手  第四話   雷王バウ  第五話   太陽の砦  第六話   反逆  第七話   死の抱擁  第八話   遊女サーザラ  第九話   迷宮脱出  第十話   隊商頭ジルボル  第十一話  金貨十枚の誘惑  第十二話  不思議な馬車  第十三話  トルテンベルの最後  第十四話  樹海の怪物  第十五話  青い平原  第十六話  終着都市  第十七話  公平審判団  第十八話  船長モルケイン  第十九話  セラファン海流  第二十話  快速雷撃艦  第二十一話 超都市|SYG《サイガ》  第二十二話 弾丸軌道車  第二十三話 戦鬼兵団  第二十四話 時の泉  後 話   雷王伝説  前 話 紫月の旅人  紫の月が明けた朝、定めにしたがって、少女はひとりで沐浴《もくよく》に出かけた。  泉へと下る山道は、ようやく咲きほころびはじめた茜《あかね》色の花々にふちどられ、誘うような屈曲をみせて続いている。  少女は、大きすぎる寛衣《かんい》を両手でたくし上げるように持って、静かに、それを見下ろした。  そして、歩きだした。  山道には、乾いた地衣類が敷きつめられている。その感触が、素足の少女には心地良い。  いつしか、彼女の足どりは、踊りの節奏を刻む軽やかなものに変わっていった。  空は晴れていた。  だが、風にはまだ、朝の冷気が残っていた。  その冷たさが、かえって、匂《にお》いたつ季節の香りを鮮やかなものにしていた。  少女はかすかに息をはずませ、全身をくすぐるその風の中を駆けた。  すでに——数瞬前までなら長すぎた寛衣の裾《すそ》は、少女のくるぶしまでになっている。  少女のあどけない表情も、ひと呼吸ごと、時の風に洗われて、美しい娘のそれへと変化してゆく。  彼女は、それを感じていた。  泉の滑らかな水面に、自分の顔を映してみるのが、今から待ち遠しかった。その瞬間を思うと、胸がときめいた。  彼女は、さらに駆ける旋律を速めた。  その一歩ごと、彼女の手足は、幼さから解放されて、のびやかに成長する。  硬かった胸も、今や張りのあるふたつの丘となって、彼女がまとう寛衣を、少しずつ持ち上げてゆく。  幼さが若さに、愛らしさが美しさに……少女から娘へと、彼女は姿を変えていった。  やがて——道のはずれに、木立ちで囲まれた小さな泉が見えてくる。それは、彼女が命名の儀式とともに与えられた彼女だけの沐浴《もくよく》場だった。  娘は疲れも忘れて、そのほとりに駆け寄った。  そして、そこにひざまずき、澄み切った天然の鏡面に、自分の顔を差し出した。  彼女の荒い息が、一瞬、その鏡面の平滑さを乱した。  泉に、ささやかな波紋が広がった。  しかし、それもすぐに消え、静けさをとりもどした水面は、美しいひとりの娘の顔立ちを映し出していた。  娘は、その自分の像に微笑《ほほえ》みかけた。  かすかなはじらいに似た気持ちが、彼女の顔を上気させた。  彼女は、とめていた息を一気に吐き出し、わざとその鏡像を吹きはらった。  そして、立ち上がり、ゆっくりと、まとっていた寛衣を脱いだ。  その下から、輝くばかりの裸身が現われた。  そこには、泉への道を歩み出した時の少女の面影は残っていない。  彼女は、ちょっと身震いし、右足を泉にひたした。  水は切れるように冷たかった。  しかし、若さが、それを快い刺激に変えてくれた。  娘は、小さな悲鳴を上げ、ひとりではしゃぎながら、水滴を全身に振りかけた。  それは朝日を受け、きらめく宝石となって、彼女の裸身を飾った。  娘は、自分自身をいとおしむように、両腕で胸を抱き、少しずつ、その全身を、泉に沈めていった。  やがて首まで、彼女はそこに浸《つ》かり、ゆったりと手足をのばして、泳ぎはじめた。  泉の水にすっかりとりかこまれると、冷たさはもはや感じなかった。  かえって、気持ちの良い火照《ほて》りが、娘を内側から暖めているようだった。  青い水面に、娘の黒い、長い髪が広がった。  と見る間に、娘は、魚のように身をひるがえし、泉の中央の深みへともぐってゆく。  ゆらゆらと、白い裸身が水中で揺れた。  口の端から洩《も》れる小さな水泡《すいほう》が、点々と泉の底へ向かって続き、それがまた、ゆるやかに昇ってきた。  ざぶん、と水音を立てて、娘は水面に顔を出した。  大きく、二度、三度と息をつき、頭から流れ落ちる水滴を片手で拭《ぬぐ》う。  そして、あたりの静寂に耳を澄ました。  この泉は、彼女だけのものだった。  他の誰《だれ》にも禁断の場所だった。  その掟《おきて》は、かつて一度も破られたことはなかった。  だから、娘は、他人の目をまったく気にすることなしに、思うままふるまい、この孤独の時間を楽しむことができるのだ。  その時間が、彼女の心を清めてゆく。  彼女を、さらに内面から輝かせる。  また、娘は、裸身をひるがえした。  そして、幾度も幾度も、水中深く、全身を沈めた。  やがて、快い疲れが、娘のあり余る若さを解きほぐしはじめた。  彼女は手足の動きをとめ、ぽかり、とあおむけに水面へ浮かび出た。そして、真青な空を無心に見上げた。  どこかで、鳥のさえずりが聞こえた。  が、すぐに消えた。  あとは、木立ちを渡る風の音だけが耳についた。そのささやきが、あたりの静寂をいっそう際立《きわだ》たせていた。  と——  その時、娘は急に何かの気配を感じ、慌《あわ》てて身をひねった。  どこかで、小枝を折るかすかな音がしたように思ったのだ。  彼女は、首から下を水中に沈めたまま、素早くあたりを見回した。  すると、今度ははっきりと、草を踏む足音が聞こえた。 「誰《だれ》? 誰なの……」  娘は思わず小さく叫んだ。  しかし、村の人間が、この禁じられた場所にやってくるとは思えない。  それは、あり得ないことだ。  娘は、身を固くした。  物音のした方角を目で探りながら、ぎこちなく手足を動かして、寛衣《かんい》が脱ぎすててある水辺へと引き返しはじめた。  再び、茂みが鳴った。 「誰なの? ここへ来てはいけないわ!」  娘は、また、声を張り上げた。  そうしながら、ようやく足が届いた水底を蹴《け》り、ざぶざぶと泉を掻《か》き分《わ》けて、岸へと這《は》い上がった。  その時、木立ちの背後のいばらの茂みが、ふたつに割れた。 「あっ……」  娘は息を呑《の》んだ。  そこから現われたのは、男だった。  旅人らしい。  一本の杖《つえ》のような長い棒を右手に持ち、背中には、粗末な旅具を背負っている。  娘の口が、悲鳴の形に開いた。しかし、恐怖が、そこからほとばしり出ようとする声を押し殺した。  娘は、動くこともできず、ただ男をにらみつけた。  しかし、どうやら、驚いたのは娘の方だけではなさそうだ。  茂みの中から這《は》い出してきたその男も、ぽかんと口をあいたまま、化石したように動かない。  見れば、男は若い。  汚れた衣服から突き出している手足は、いかにも屈強そうな筋肉を帯びてはいるが、それでもなお、しなやかに引きしまって見えた。  娘は男の顔を見た。  むしろ繊細と言っていい目鼻立ちだ。深い瞳《ひとみ》が、純粋な驚きだけを宿して見開かれていた。  二人の目と目が合った。 「……ああ……」  ようやく、娘の喉《のど》の奥から、小さな声が洩《も》れた。  何かが……わけの分からない感情が、彼女の身体の中を走り抜けた。  娘は、生まれてはじめて味わうその感情のうずきにとまどい、背すじを大きく震わせた。  そしてその瞬間、男の前に裸身をさらしたまま、水辺にたたずんでいる自分の姿に気付いた。 「だめよ! 来ないで……」  娘は叫んだ。  その頬《ほお》が、たちまち花の色に染まった。娘は水から駆け上がると、地面に脱ぎすててあった寛衣《かんい》に手をのばした。  そして、男を盗み見ながら、素早くそれを頭からかぶった。  それでも、男は動かない。  衣服を身につけた安心感で、娘の心に、わずかばかりの余裕が生まれた。 「誰《だれ》なの……あなたは、誰? どこから来たの? ここは、あたしだけの泉、他の誰も、ここへは近付けない掟《おきて》よ。旅の方ね? だから、知らずにやってきたのね? いいわ……このことは誰にも言わない。だから、すぐに立ち去るのよ」  娘は、厳しい口調を崩さず、男に告げた。  男はまだ沈黙している。身体《からだ》を動かしもしない。  しかも、その目は、一瞬たりとも、娘から離れようとしない。  娘は、緊張した。きっきまでの顔の赤みが、たちまちに褪《あ》せた。水のしたたる全身が、ようやく照りつけてきた太陽のぬくもりにもかかわらず、冷たくこわばり、小刻みに震えはじめた。  そのまま——十いくつかの鼓動を、娘は数えた。  が、男は動かない。何も起こらない。  やがて、娘は気付いた。  男は彼女を見つめ続けている。けれど、その視線から、危険の予感はまるで感じられない。  気配はあくまでも静かで、平らかだ。  一歩、後退《あとずさ》ろうとした片足を、娘はゆっくりと元の位置へもどした。そして、改めて、男を見つめ返した。  彼の顔は、長い旅に疲れ、太陽に灼《や》かれ、そして乾いたほこりにまみれていた。にもかかわらず、それらは、青年の美貌《びぼう》を隠しおえてはいなかった。  娘の心が、ふと奇妙に揺れた。 「……いけないのよ……すぐに、ここから立ち去ってちょうだい……」  娘は再び言った。しかし、その声に、前ほどの力はない。  娘の怖《おそ》れは、次第に、とまどいへと、困惑《こんわく》へと変わっていった。  男はなおも娘を見つめ続けている。  そして彼女は、彼の表情の中に、どこか、懐かしさを思わせる親しみの色を見てとっていた。  それが、彼女を優しい混乱にひきずり込んでいた。  もちろん、その青年に見覚えがあるはずはない。明らかに初対面の旅人なのだが、どういうわけか、娘もまた、その青年を、いつか、どこかで見知っているような、そんな不思議な気持ちを感じていたのだ。  たとえば、遠い昔に見た夢の中ででも会ったことがあるような……  と、ついに、男の口元が、ぴくりと震えた。 「……わたしは……荒野を越えてきた……水筒は、二日前に空になった……わたしは、水が飲みたい……ただ、それだけが、望みだ……」  絞り出すようなしわがれ声だ。それが、男の喉《のど》から洩《も》れた。 「まあ……でも……」  男が、娘と同じ言葉を喋《しやべ》ったことで、彼女はとりあえず少しばかり肩の力を抜き、そして、寛衣《かんい》の胸元を意味もなくかき合わせながら言った。 「……でも、旅のお方……あなたが、この泉の水を汲《く》むことはできませんわ。なぜなら、この泉は、あたしのための特別な泉なんですもの。あたし以外の誰《だれ》も、この水に触れてはならない掟《おきて》です。……いえ、それだけじゃありません……ここから、さらに森の奥へ進めば、あなたは同じような小さな泉を、いくつも、いくつも見つけることでしょう。でも、その泉にも、それぞれに決まった持ち主がいるんです。そう……誰も、そこを侵《おか》すことはできません。この森は、女たちのための、禁断の土地なんです。荒野を旅してきたお方……あなたが踏み込んでしまわれたのは、そんな土地なんです……」  娘は首を振り、眉《まゆ》を寄せ、男に説明した。  しかし、その言葉には、小さな嘘《うそ》が含まれていた。  というのは、掟は、その女の夫たるべき男にだけ、その泉の水を許していたからだ。  だが、娘には、それにあたる人間はいなかった。  だから、その意味では、泉が、娘ひとりのものであるのはまちがいなかった。 「……わかりました……知らなかった……」  男は、深い深い溜《た》め息《いき》を吐き出した。  彼の視線が、はじめて娘の顔から離れ、地面へと落ちた。 「……では、わたしが水にありつくためには、どこへ行けばよいか……それを教えては、もらえないだろうか。娘よ……それを、わたしは知りたい……」  失望が、男の声をさらにしわがれたものにしていた。  娘は、唇《くちびる》を噛《か》んだ。  彼に教えなくてはならない事実が、余りにも酷《むご》いものであったからだ。  彼女は、かすかに青ざめた顔で、男に呼びかけた。 「……旅のお方……あなたが、この森以外の水の湧《わ》く場所へ出るには、ここから、さらに半日、西へ旅を続けなくてはなりません。半日進めば、獣たちが集まる水場に出ます。他に水があるのは、あたしたちの村だけです。でも、あたしたちの村は、決して他所者《よそもの》を迎え入れません。あなたは、たとえ村まで上ったとしても、水を得るどころか、石つぶてで追われることとなりましょう。それは敵意のためではなく、掟《おきて》によってです。掟が、他所者を許さないのです……」  娘は、次第に小さくなる声で、そう告げた。 「……ここから……半日……」  男は一瞬顔を上げ、呻《うめ》いた。  そして、がくりと肩を落とし、またうつ向いた。  目の前には、清浄な水をたたえた美しい泉がある。しかも、男は、乾き切っている。娘が教えた半日先の水場まで辿《たど》りつけるかどうかも怪しいほど疲れ果てているようだ。  娘は、さすがに不安を感じた。  男はうつむいたままだ。その目の色が読めず、彼女の不安はつのった。  男が、なんとしてでもこの泉の水を飲もうと決心したら、もはや娘に、それをとどめる術《すべ》はないに違いない。  男はなかなか顔を上げない。  何事かを、その姿勢で考え込んでいるようだ。  娘は、そんな彼に、言葉をかけたかった。だが、どんな言葉も見つからなかった。  娘は待った。震えながら、待った。  泉に、再び静寂が還《かえ》ってきた。時が静止してしまったようにすら感じられた。もしそうならよいのに、と娘は思った。時がよどみ、凍りついてしまったなら、このまま二人は、そのかりそめの永遠の中で、立ちつくしていられるのだ。  だがしかし、やはり時は無情にも流れ続けている。  それを娘に教えさとすかのように、一陣の風が、ことさらに木々を鳴らして過ぎた。  男の肩が動いた。  娘は、息をとめた。  男は、長い杖《つえ》にすがって、ゆっくりと立ち上がった。  その杖は、ところどころに奇妙な突起やくぼみのある、不思議な形状の棒だった。  男が握っている部分は、鈍く光る金属だ。  だが、その他の個所は、娘には見当もつかない材質でできていた。  男がどこから旅してきたにせよ、それは娘が知るべくもない、はるかな、はるかな世界に違いなかった。  それは、あちこちほころびた男の服装からも知れた。  男は顔を上げた。  そして、ちらりと泉の水面に目をやってから、視線を娘にもどした。 「……わたしは、長い旅を続けてきた……だから、それがあと半日のびたところで、気にはならない……」  男は、自分に言いきかせるように、つぶやいた。 「……ただ、この長い旅の末に、あなたと出会い、そして、別れねばならないことが残念だ……だが、しかたがない……」  男は、軽く頭を下げた。  そして杖《つえ》にすがり、よろり、と一歩、横に足を踏み出した。 「……待って!」  思わず、娘は叫んだ。 「あなたを行かせてしまうわけにはいかないわ!」  なぜそんな言葉を思いついたのか、娘は自分でも分からなかった。しかし、彼女は、そう叫ばずにいられなかった。 「あなたは、とうてい、西の水場まで行きつけない。もう、あなたに、その力は残っていないわ。あたしには、それが分かる……だから、行かないで!」 「…………」  男は無言のまま、首を曲げ、娘の瞳《ひとみ》をのぞき込んだ。 「え、ええ……たしかに、掟《おきて》は、掟。でも、この泉は、あたしのものよ。だから、このあたしが、あなたに水を分けてあげるわ。あたしはこれから、うしろを向きます……あなたが、何をしようと、あたしは、それを見ないことにします……だから、どうか、この泉を使って!」  男の顔が、ぱっと輝いたようだ。  無邪気な喜びの表情が、彼をさらに若々しく、そして美しく見せた。 「本当に?」  白い歯がこぼれた。 「さあ……あたしは、うしろを向くわ。だから、思いきり、泉の水を飲んで……その身体《からだ》を洗いなさい。もう、泉は、あなたのものよ……」  娘はつぶやき、さっと頬《ほお》を染めた。  そして、それを見られないように、くるりと背を向けた。  村の者なら、彼女の言葉が求愛を意味するものであることを、すぐに理解しただろう。  そして、彼女がその言葉にこめたものも、まさしく、それだった。  泉の水を共に浴びたなら、その二人は結ばれねばならなかった。それが、掟《おきて》だった。  青年に水を与えるためには、その掟に従う他なかった。  娘は、そっとやわらかい唇《くちびる》を噛《か》んだ。そして、目蓋《まぶた》を閉じた。 「本当に? しかし……掟に背くことになるのなら……」  娘の背中に、青年が呼びかけた。 「早く! 乾きで、死んでしまわないうちに……」  娘は祈るように言った。  水音が上がった。  そして、歓声……水をむさぼる荒い呼吸……やがて、旅具が地面に投げ出され、着ているものを次々に脱いでゆく音が聞こえる。  ついで、ひときわ大きな水音。  裸になった男が、泉に身を躍らせたのだろう。  そんな光景のひとつひとつを、物音からだけ想像しながら、娘は、高鳴る自分の鼓動に、じっと耐えていた。  しかし、それは、定められた運命に逆らい続けることのように思われた。  いつまでも、そうしてはいられない。不思議な衝動が、彼女を執拗《しつよう》に揺り動かしはじめていた。  濡《ぬ》れたままの彼女の肌《はだ》は冷えていた。しかし、全身をめぐる血は、熱く脈打っていた。  その熱が、彼女にすべてを忘れさせた。  泉は、娘だけの世界だった。  そして、その世界に、ひとりの青年がいた。青年と娘の二人だけがいた。  ざぶざぶと水を分けて、青年が岸へ上がってくるのが分かった。  彼女は、静かに身体をめぐらした。  そして、目蓋《まぶた》を上げた。  そこに、見違えるように生気を取りもどした青年がいた。  衣服に手をのばそうとしていた青年が、はにかみを含んだ驚きの目つきで、娘を見返した。 「あ、ああ……おかげで、生き返った。ありがとう。もうひとつ、お願いがある。この水筒に、水をつめるだけの時間が欲しい。それが済んだら、わたしはすぐ、ここを立ち去る」  青年は、手にした上衣で裸体を隠すようにしながら、白い歯を見せて笑った。  しかし、娘は、それに答えず、するりと、自分の寛衣を地面に落とした。 「どうしたんだ……いったい……」  青年が、喉《のど》に引っかかったような声を出した。  娘は答えない。  そして、夢見る者のような足どりで、一歩、二歩と青年に近付いた。  娘の瞳《ひとみ》は、思いつめた人間特有の、きつい光を放っていた。  青年は、それをまぶしそうに見た。  二人の距離が、さらに縮まった。  ついに、娘は、青年に両手をのべた。  しかし、その真意を計るべくもない彼は、うろたえ気味に、視線をさまよわせた。 「あなた……」娘は固い声で、呼びかけた。 「……あなたは、あたしの泉を浴びた……あなたはもう、あたしと結ばれた……あなたは、あたしのもの……あたしは、あなたのもの……」  娘の腕が、青年の首にからみついた。  彼女はのびあがり、求愛の証《あか》しに、三度、彼の鼻先に自分の額を押しつけた。  泉の掟《おきて》を知らない彼も、その意味は知っていた。  彼の腕が、ためらいがちに、娘の肩を抱いた。二人は、鼻先と鼻先を合わせた。 「……予知があった……この土地へ足を踏み入れた時から、わたしは感じていた……そして、きみと出会った瞬間、わたしは確信した……運命の輪が、はっきりと見えた……」  青年はささやいた。  娘は無言で、こくりとうなずいた。  二人は、柔らかな草の上に抱き合って座り、やがて、身体《からだ》を合わせて横たわった。  時が、脈打った。  そして、過ぎた。 「……きみの、名前も知らない……」  娘をいとおしむように抱きとめたまま、青年はつぶやいた。 「……それは、必要のないものよ……だって、あなたは、もう、あたしの泉を浴びたひと……名前を知り合うより強く、あたしたちは結ばれたのよ……運命の神によって……」  甘えを含んだ声で、娘は答えた。 「その通りだ……それに、わたしは、きみに名乗るよう求められても、それに答えるべきものがない」  青年が言った。  いぶかしむように、娘は顔を上げた。  その瞳《ひとみ》には、まだ、余韻のかすみがかかっていた。 「……なぜなら、わたしは、名前というものを未《ま》だ与えられていないのだ……生まれてから今まで、わたしは、誰《だれ》からも正式に命名されたことはない……誰もが、わたしを好きなような番号やあだなで呼ぶ……けれど、それらは皆、わたしの本当の名前にはならなかった……いや、わたしは、本当の名前というものが、あてはめられない人間なのかもしれない………わたしは、そのように運命づけられているのかもしれない……だから逆に、わたしはどんな名前で呼ばれようと、いつも、わたしだった……」  ゆっくりと青年は言った。 「あなたは、どこから来たの? どこへ、行くの?」  二番目の問いを発する時、娘の声は震えた。 「わたしは、故郷を追われて旅に出た……そして、世界をひとめぐりして、ここまでやってきた……わたしは、また西へと進んで、故郷に還《かえ》る……」  男の声には、はっきりとした決意が感じられた。  それを引きとめようとするのは、無駄《むだ》なことだった。娘は、それを知っていた。  だから、彼女は黙ってうなずいた。  二人は、再び、強く抱き合った。 「……ああ……」  娘は、激情にかられて、青年の身体《からだ》にしがみついた。 「……帰ってきて……あたしの泉に、いつか帰ってきて……」  娘は、抱かれながら、うわ言のように、そう繰り返した。 「……わたしは、きっと、ここに……きみの泉に帰ってくる……わたしは、そう、定められているのだ、そんな気がする……わたしは、いつも、ここへ帰るために旅を続けなくてはならないのだ……」  青年は、優しく愛撫《あいぶ》を続けながら、そう答えた。  夢のような時間は、またたく間に過ぎていった。  すでに、太陽が傾きはじめていた。  日中の、心地良い暖かさが急速に失われ、空の色も見る間に深くなった。  やっと、二人は身体を離した。  そして、互いの目と目を見つめあったまま、のろのろと衣服を身につけた。  青年は、旅具を背負い、あの奇妙な杖《つえ》を右手で握った。  そして、うなずいた。  それが別れの合図なのだと知って、娘の瞳《ひとみ》から、涙があふれた。  しかし、彼女は声を上げなかった。  青年が、いつかきっともどって来るという、予知があった。運命の輪が、二人を分かちがたく結びつけている確信があった。 「……わたしは、行かねばならない……」  青年は、ぽつり、と言った。  娘は、涙を拭《ぬぐ》おうともしないで、うなずき返した。  彼が、くるりと、彼女に背を向けた。  そして、長旅の疲れで痛めたものか、かすかに右足をひきずるようにしながら歩き出した。  それっきり、彼は一度も娘を振り返ろうとしなかった。  だが、それでよかった。もし振り返れば、そこで、運命の輪がとぎれてしまいそうな予感があった。  彼が遠ざかれば遠ざかるほど、それは再会までの距離が縮まってゆくことなのだ。  娘は、ぼんやりと、そのことを考えた。  青年は、泉のふちを回るように歩み、やがて、木立ちを分けて去っていった。  あとには、娘ひとりが残された。  強まってきた風が、彼女の涙を払った。  大気には、ごく微量ずつ、しかし着実に、闇《やみ》の粒子が混入されつつあった。  娘は、ようやく、姿のない旅人に対する見送りをあきらめた。  そして、歩きはじめた。  やがて、山道にさしかかった。  敷きつめられた地衣類の柔らかさはそのままだったが、道の両側に咲きほこっていた花々は、もう眠りにつく姿勢で首を垂れていた。  今朝来た道を、娘はとぼとぼと引き返していった。  彼女の胸の中は、すでに、空っぽになっていた。  ただ、身体《からだ》のどこかで、新しい熱い血が脈打ちはじめたのを、娘は感じていた。  それが、彼女を支えてくれた。  登りは、次第に急になった。  娘は、息を切らし、幾度も立ちどまって休息をとった。  しかし、登っても、登っても、彼女の寛衣は、同じように、彼女の身体《からだ》を包んだままだ。  いつもなら、もうこのあたりで、その裾《すそ》を踏まないようたくし上げなくてはならないはずなのに、彼女の背丈は、そのままだった。  娘はいつまでも娘のままだった。  彼女は、少女の姿でこの坂を下った今朝の自分を、懐かしく思い出した。  別な時間の流れが、彼女を包み込み、そして、ただひとつの方向へと、彼女を運びはじめたのだ。  そのことを知って、彼女は微笑《ほほえ》んだ。  なぜ、自分が、新しい時の流れに乗ったのか……その理由は、ひとつしか考えられなかった。  ともかく、もはや彼女は、少女ではあり得なかった。彼女は、母親となる日のことを空想して、忍び笑いを洩《も》らした。  中腹の尾根を過ぎたところで、村が見えはじめた。  かつての彼女と同年輩の少女たちが、数人、手をつなぎあって遊戯に熱中していた。  彼女は、その輪に駆け込みそうになる自分を抑え、ただ、声をかけた。  少女たちはいっせいに振り向き、そして長い間、呆気《あつけ》にとられて娘の全身をねめまわした。  と、ひとりが鋭く叫んだ。  少女たちは、それこそおびえた小動物以上の素早さで、先を争って村へと逃げだした。  日常の何もかもが変わってゆく……一抹《いちまつ》の物寂しさが、娘の胸を横切った。  しかし、喜びは、それをはるかに上回って、彼女の心を暖めていた。  …………  …………  紅の月、彼女は、ひとりの男児を生み落とした。  村の女たちは、その夜、娘の家に集まり、新しい生命の誕生を祝福した。  だが、その子供が許されざる破戒の結果であることは明らかだったから、村人たちは、掟《おきて》に従って、子供に名前を与えることを禁じた。  それでも、娘は幸せだった。  名前などなくとも、子供は、何ものよりも確かに、彼女の腕の中にあったからだ。  しかし、娘は、その喜びを長い間抱きしめてはいられなかった。  出産に際しての衰弱が原因で、彼女はその翌々日、あえなく、この世を去ってしまったからだ。  そして、名付けられざる子供ひとりが残った。  村人は、これも掟に従い、その子供を里へと連れていった。  そして、とある街道の町で、子供を売りに出した。  乳呑《ちの》み児《ご》にもかかわらず、その子供には、すでに将来の美貌《びぼう》を感じさせるものがあった。  子供は、かなりの値で、ある老夫婦に引きとられた。  村人たちは山へ帰り、そして子供のことを忘れ、娘のことを忘れた。  山の時間は再び閉じ、そして、その輪の中で、すべてが磨滅していった。  しかし新たな運命の輪が、すでに回転をはじめていた。  新しい時間の種が、成長をはじめたのだ。  第一話 エルヴァの道  じりじりと暗い油が燃えていた。  その炎が揺れるたびに、穴倉のような酒場全体が、いっしょに揺れた。  そこに、ひとりの年老いた男と、店番の少年が座っていた。他に客はいなかった。 「……いいかい、ぼうず」  片目の老人は、白く濁った酒を飲み干し、ろれつのあやしくなった口元を手の甲でぬぐってから、先を続けた。 「これを、ごらん」  男はぼろに近い衣を手であちこち探り、やがて、ふところのあたりから、一片の細長い布を取り出した。 「そうじゃ……これだ。これを、だ……こんな風にひとひねりさせるのじゃ……すると、どんなことが起こると思う? ん、ぼうず」  老人はその布片を一回ひねり、両端を指先でつまんだ。そして、汚れたしわだらけの手を突き出した。 「ん? わかるかな、ぼうず……いいか、この布の表がこっち側だとする……裏は、こっちだ。そうだ……その表を、ずっと指でなぞってみなさい……そうだ……そうやってだ……」  老人の声は、奇跡に対する期待で低くなった。  壁で燃える炎が、風もないのに、また揺らいだ。一回、そしてまた一回。  少年は、言われるままに、垢《あか》じみた布を手にとり、その表面をなぜていった。 「あっ……これは! いつの間にか、表が裏になってる。裏と表が、つながっている……おかしい……おかしいぞ!」  少年は声を張り上げた。  そして、今後は慎重に、布の織り目のひとつひとつを確かめるように、指を這《は》わせた。  しかし、結果は同じだった。  表は裏に、裏は表につながっている。幾度確かめても、それは錯覚ではなかった。  少年の頭は混乱しはじめた。その混乱が彼を興奮させた。 「魔法だ……魔法の布だ……」 「どうだ、え? 驚いたかね?」  老人は、満足そうに、喉《のど》の奥でクックッと笑った。 「ようし……教えてやろう。これは�エルヴァの道�と呼ばれておる魔法なんじゃ。いいか、忘れるんじゃないぞ。�エルヴァの道�だ。うむ……どうだ、驚いたか」  少年は、信じられない、という風に、首を激しく左右に振った。 「エルヴァの道、だね?」 「そうだ……よし、よし……頭のいい子だ……だから、もうひとつ、おまえに教えてやろう」  老人は、正常な方の目をしばたたかせながら、さらに声を落とした。 「……これが、世界なんじゃ。世界とは、このようにできておる」 「どういうことなの?」 「導師の教えじゃ……この世界には、表と裏がある。だが、それは、知らぬ間につながっている、ということじゃ。この布のように、な」 「わからないよ、ぼくには……どういうことか……」 「知りたいか?」 「うん……」 「ならば、もう一杯、酒が必要じゃ。幸い、おかみは奥に引っ込んだ。ぼうず、あの樽《たる》の中の酒を、この杯に満たしてきてくれ。そうすれば、教えよう」  老人は、欠けた歯ぐきをむき出して、少年にささやいた。 「だめだよ、そんなことをしたら、どやしつけられるよ。だって、おじいさん、もう、お金を持っていないんだろう?」  少年もささやき返す。 「では、秘密を知りたくはないのだな?」 「それは、聞きたいけれど……」 「よし、わかった。では、この布を、おまえにやろう。エルヴァの魔法の布だ……金などでは買えぬ代物《しろもの》だぞ。それは、わしが、導師から直々《じきじき》にいただいたものだ。わかるじゃろう? そのかわりに、酒を飲ましてくれ、たったの一杯だけでいい。どうじゃ、立派な取り引きだろうが、え?」  老人は半ば据《すわ》った目で、少年を見つめ、懇願《こんがん》した。 「…………」  少年は、無言のまま、手に握った魔法の布と酒杯を二度、三度と見比べた。  そして、酒杯を掴《つか》むと立ち上がった。 「かあさんには、秘密だよ」  少年は怒ったように言い、壁際に並ぶ酒樽《さかだる》まで走ると、ぎこちない手つきで杯を満たして、またもどってきた。 「よし、よし……かしこい子だ……おまえは、知恵というものの大切さを知っておる。そうとも……知恵というものはな、金などより、よほど貴重なものなのだよ」  老人は言いながら酒杯を受け取り、一気にその半分ほどを喉《のど》に流し込んで、深いため息をついた。 「さあ、教えておくれよ、おじいさん。世界に表と裏があるって、それは、どういうことなの?」 「よし、よし、そう急《せ》かすな……」  老人は、少年が握る布片を指差しながら、話しはじめた。 「……いいか、ぼうず。この町の北にある街道の名前は知っているか?」 「セラファン街道のこと?」 「うむ、その通りじゃ……あの街道は、西と東にずっと続いている……果てしなく、果てしなくだ……」 「うん……」  少年はうなずく。 「あの街道が、もしも、このエルヴァの布のようであったとしたら……どうじゃな?」 「ああ……そうだとしたら……」  少年は、幼い頭で、必死にその様子を想像した。 「……もし、そうだったら、あの街道をどこまでも進んでいけば、いつかは、その裏側……そうだ、裏側の世界へ行けるんだね!?」 「その通りじゃ……そしてまたどこまでも進めば、いつかはここへ、出発したと同じ場所へもどってくるというわけじゃ……」  老人は言って、次のひと口で、残りの酒を飲み干した。 「おじいさん、あなたは、その裏側の世界へ行ったことがあるの!?」 「……うむ……わしも、これまで、幾度も旅には出た……セラファン街道を行ったり来たり……だが、わしには勇気がなかった。あの道を、どこまでも行く勇気がな……」  老人は、ふっと目を閉じた。 「……どこまでが表で、どこからが裏か……そんな区別がつけられるものではない……世界はいつか裏になり、そしてそこに住む者にとっては、それが表の世界なのだ。裏と表、表と裏……それは、どちらも同じことじゃ……エルヴァの魔法とは、それを教えるためにあるのじゃ……だが、わしには勇気がなかった……いつも、わしは途中で道を引き返した……西へ行った時も、東へ行った時も……進めば進むほど、わしは不安になった……見なれぬ風物、とうてい信じられぬような習俗……そんなものを、ちょっとでも見つけると、 わしはいてもたってもいられなくなって、いつも、この土地へ逃げ帰ってきてしまうのじゃ……」  少年は、老人から手に入れたその垢《あか》じみた布をまさぐりながら、話に聞き入っていた。 (ぼくなら、行ける……どこまでも、どこまでも、行ける……)  そう心の中でつぶやきながら、少年は、全く見知らぬ世界に思いをはせていた。  彼が指でなぞる布の道は、果てしなく、果てしなく続いていた。 「ふーむ……さて、と……」  老人は、また、片目を開いた。  そして、酒くさい息を、少年に吐きかけた。 「……ところで、ものは相談だが……もう一杯……もう一杯だけだ……それを飲んだら退散する。どうだ? 今しゃべった秘密は、充分に、もう一杯分の酒には値するぞ。ぼうず、いいだろう?」  老人は卑屈に頬《ほお》を歪《ゆが》め、再び酒杯を少年に押しつけようとした。 「カルファ! いけないよ、ちゃんとお代はいただかなくちゃ!」  店の裏口から、割れ鐘のような声が響いた。  いつの間にか、この店のおかみ、少年の母親が奥からもどってきていたのだ。  おかみは、足音も荒く、二人のいる一角に近付いてくると、太い腕をのばして老人から酒杯を取り上げた。 「あんたも、あんただ。こんな子供をたぶらかすような真似《まね》をして! また、なにか、いんちきな手品でも見せたんだろう、え?」  おかみの声はけわしい。 「さあ、さあ、もう金が無いんなら帰っておくれ! うちも商売なんだ。タダで酒をめぐんでいたら、こっちがやっていけなくなっちまう」  おかみは、ぶつぶつ言いながら老人を追い立てにかかる。  そして、かたわらでもじもじしている少年の尻《しり》を思いきりどやしつけた。 「ほら、もうここはいいから、とうさんの看病をしてきておくれ! おまえに店番をさせておくと、ロクなことはない!」  おかみがもう一度手を振り上げる前に、少年は駆け出した。  その手の平には、しっかりとあのボロ切れが握られていた。  彼は信じていた。エルヴァの魔法が、子供だましの手品などではないことを——  第二話 西の都  少年は、カルファと呼ばれていた。  だが、それが彼の本当の名前ではなかった。  いや、彼には正式の名前がなかった。また、彼は、両親の間で生まれた本当の子供でもなかった。  彼は、買われてきた子供だった。子宝にめぐまれぬ夫婦が、見知らぬ村の民から彼を買ったのだ。  その時から彼には名前がなかった。  彼を売り渡した村人たちは、この子供は掟《おきて》によって命名を禁じられているのだ、と説明した。  夫婦はそれを納得《なつとく》し、ともかくも彼を引きとった。  しかし、それでは不便なので、育ての親たちは、彼にカルファという仮の呼び名を与えていた。  カルファとは、かつて、その夫婦が、寂しさをまぎらわすために飼っていた小犬の名前だった。  少年はその二人に育てられ、大きくなった。  ことさら大切にされはしなかったが、必要なだけの愛情は与えられた。  彼が十二歳の春、それまで長く患っていた男親が死んだ。  夫の看病に疲れ果てていた老妻は、それをきっかけに町を出る決心を固めた。  その頃《ころ》、街道の西では、新しい王のもとで、新しい大きな都が築かれている、という噂《うわさ》があった。  彼女はすでに、そこそこの暮らしを続けられるだけの財産を蓄えていた。  だから、夫のいない寂しい老後を、せめてにぎやかな都で過ごしたいと考えたのだ。  彼女は、女手ひとつで切り回してきた酒場を血縁の者にゆずった。それによって、さらにまとまった小金を手に入れた。  そして彼女は旅に出た。  もちろん、カルファがいっしょだった。  二人はセラファンの街道を西へ西へと歩いた。  進むにしたがって、人の往来がめっきりふえた。  大きな牛車や、軽快な馬車が、列をなして二人を追い抜いてゆく。  そのことからも、行手にある都の繁栄がしのばれた。  噂《うわさ》にいつわりはなかった。  期待が、老いた寡婦《かふ》の足取りを軽いものにしていた。  都というものが、いったいどのようなものなのか想像もできないカルファではあったが、彼女の上機嫌《じようきげん》が、彼の心をも明るくしていた。  七日七晩かかって、二人は都の城壁に辿《たど》りついた。  今なお建設が続く都は、全体が荒々しい熱気に包まれていた。  二人は、城壁沿いに、次第に形成されつつある市街の一角に、ほどよい大きさの家を見つけ、そこに住みついた。  そして、三年が経った。  …………  ある日、少年は、物売りたちでごった返す表通りを、市場へと歩いていた。  手には、母親が暇にまかせて織った、美しい刺繍《ししゆう》入りの肩掛けをかかえていた。  彼は、それをとある雑貨商のところへと運ぶよう言われて、家を出たのだ。  行き交う人々の顔は雑多だった。  活気あふれるこの新都は、さまざまな地方のさまざまな職業の人間たちを吸い寄せる力を持っていた。  それが都の、そして国王の富をさらにふくれ上がらせ、その富がまた、人を集めた。  カルファは、一度だけ、この都を築いた王の顔を望見したことがあった。  城門から続く玉砂利の道を、王は八人の奴隷《どれい》がかつぐ輿《こし》に揺られて通り過ぎていった。  王は、まだ、大変に若く見えた。  王と呼ばれる人間には不似合いなほど、知性的で、かつ鋭い美貌《びぼう》が印象的だった。  少年は、ある種の抗《あらが》いがたい憧《あこが》れを感じながらその行列を見送った。  この都には、そんな若い王の魅力そのものが、実にくっきりと映しだされている……その時、少年は思ったものだ。  ところで——都を愛し、王の治世を喜ぶ人々は多かったにもかかわらず、その王の素性《すじよう》は、全くと言っていいほど知られていなかった。  そればかりではない。  不思議なことに、王の名を知る者すら、この都にはいなかったのだ。  すべてが謎《なぞ》だった。  人々は、彼を、無名王と呼んだ。  いつか、そのことを大人《おとな》たちから聞いたカルファは、なおさらに王に対する憧《あこが》れをつのらせた。  彼もまた、名を持たぬ人間のひとりだったからである。  その王の存在が、カルファの毎日を勇気づけてさえいた。  人の波に押し流されるように進むうち、カルファはようやく、目指す雑貨商の露店がある通りに出た。  彼は、肩掛けをゆわえた布の帯を握り直し、大人たちの足元を縫うように先を急いだ。 「おお、来たな、カルファ」  でっぷりと太った雑貨商は、露店の後の天幕から顔をのぞかせ、カルファを迎えた。 「今日は何枚だ?」 「十枚ちょうどです、テキサンドランさん」  カルファは、荷物を差し出しながら答えた。 「なるほど、十枚か……もうすこし、頑張《がんば》ってもらえるとありがたいのだが。なにしろ、この都では、今、ものがいくらでも売れる。上々の景気さ。だから、もうけるなら、なにしろ今のうちだ。それに、この刺繍《ししゆう》入り肩掛けは、ご婦人方になかなか評判がいい。わたしは、いくらでも引きとるつもりだから、もっと量をこなして欲しい、と、母さんにそのように伝えてくれ。分かったかね、カルファ」 「ええ、テキサンドランさん」  カルファは、その雑貨商に、ぺこりと頭を下げた。 「さて、と……ところで話は変わるが、カルファ、おまえ、今年でいくつになった?」 「十五歳です」  カルファは少し胸を張って答えた。  自分が、もう十分に大人《おとな》であることを相手に知らせたかったのだ。 「そうか、そうか……十五歳か……年回りはぴったりだ。それに、おまえは、顔立ちの方も、どうして、捨てたもんじゃあない」  雑貨商は、ニヤリと口ひげを歪《ゆが》めた。 「…………?」  カルファは首をかしげた。  不審そうな彼を見て、テキサンドランは大げさに両手を拡《ひろ》げ、その一方の手でカルファの肩を抱いた。 「なあ、カルファ……おまえさん、王宮へ入るつもりはないかね?」  思いがけぬ言葉だった。  カルファは、一瞬、どう答えてよいものか分からず、目を丸くして彼を見上げた。 「うむ……実はな、あの無名王の城にいる宮廷楽士のひとり、シグビルゴという老練の名鼓手が、弟子を探しているのじゃよ」  テキサンドランは言って、また、まじまじとカルファの顔をのぞき込んだ。 「ふむ、ふむ……おまえならば、だいじょうぶだ。なにしろ、宮廷楽士と言えば、王を楽しませる、言わば花だ。どれほど才能が秀《ひい》でていようと、みにくい人間ではつとまらぬ。シグビルゴも、かつてはその美貌《びぼう》をうたわれた青年楽士だったが、いつしか自分が、他人の美貌をうらやむ年齢になってしまったのに気がついたというわけだ。ところが彼には、後を継がせるべき子供がいない。そこで彼は、弟子をとるべく決心を固めた。彼は自分に替わり得る美しい若者を探して技を伝え、ゆくゆくは、正鼓手の座をゆずろうと考えている。わたしは、シグビルゴの親友から、その人探しを持ちかけられたのだ。そこで、すぐ、頭に浮かんだのが、カルファ、おまえのことだ」  テキサンドランは、カルファの肩を抱いた手に力をこめた。  カルファの頬《ほお》に、ぽっと赤みがさした。 �宮廷楽士�——それは、都に住む誰《だれ》もにとっての憧《あこが》れだった。  テキサンドランが言った通り、楽士はまさしく花だったのだ。  年に一度、王宮が民衆のために催す音楽会は、いつも、黒山のような男女を集めた。そして、そこへ足を運んで、男なら自分がその楽士であることを、女ならば楽士の恋人か妻であることを、夢見ない人間はいなかった。  カルファもまた、そんな楽士たちの人気は知っていた。  だが、楽士への憧れは、人々にとって手の届きようのないものと考えられていた。  だから、カルファも、そのことを真剣に望んだことなどなかった。  その楽士への道が、思いもかけず、今ぽっかりと目の前で開いたのだ。  カルファはとまどい、そしておびえた。 「しかし、テキサンドランさん……ぼくには、母さんがいます。母さんひとりを置いて、王宮へ行くわけにはいきません……」  カルファは弱々しく首を振った。  信じがたいほどの好運が、かえって彼の心をかたくななものにしてしまっていた。 「そんなことを心配するのは、もっと後でいいではないか。な、どうだ? 一度、わたしとシグビルゴのところへ行ってみないか? もし、おまえが望むなら、おまえの母親には、わたしからいくらでも口ぞえをしよう」  テキサンドランは熱心に言いつのる。 「それに、これだけの素晴らしい話を、母親が拒むとはとても思えん。宮廷楽士ともなれば、どのようなぜいたくも許される。母親の寂しさをまぎらわす手だてなど、それからいくらでも見つけてやれるではないか。ともかくも、一度、その鼓手に会ってみることが先決だろう。シグビルゴが、おまえを気に入らなければ、話はそれまでなのだから」  テキサンドランは、商売をそっちのけにして、カルファを天幕の中に連れ込んだ。 「さあ、カルファ……肩掛け十枚分の代金と手間賃、それに、これは、わたしからの小遣いだ」  口きき料をたっぷりもらっているらしい雑貨商は、気前よく、幾枚もの銀貨をカルファの手の平に積み上げた。 「な、考えてみてくれ、カルファ……もし、おまえが王宮に行くことになれば、結局は、親につくすことにもなるんだから。心配はない、母さんには、わたしからどうにでも言う。もし、そうして欲しいなら、今からすぐ、おまえの家までついていってもいい……」  テキサンドランの熱心な説得に負けて、カルファは彼を自分の家まで連れていった。  母親は、不安と喜びの入り混った顔つきで彼の話を聞き、ともかくも一度、その鼓手にカルファを会わせることには同意した。  そして数日後、テキサンドランはカルファを連れて王宮へ出向いた。  カルファを一目見たシグビルゴは、そのまま、彼を絶対に家へ帰そうとはしなかった。  第三話 少年鼓手  宮廷で、最も重要な儀式の間に奏せられる楽曲は、はじまりから終わりまで、半日以上を要する長大なものだった。  それは、はるか太古からこの土地に伝えられてきた王家のための儀典曲だった。  これまで、さまざまな王朝が興《おこ》っては滅び、また滅んでは興ったが、この曲だけは、少しも変化することなく、楽士たちによって連綿と受け継がれてきた。  それが、宮廷楽士たちの誇りであり、彼等の特権意識を支える精神的支柱となっていた。  いや、それは実際、意識ばかりでなく、彼等に並ぶもののない特権を許す根拠とされていたのである。  シグビルゴに引きとられた翌日から、カルファは、この楽曲の練習場に連れてこられた。  いや、その時すでに、彼の名はカルファではなかった。  シグビルゴは、将来の宮廷楽士たるにふさわしいものとして、ケランベランという名前を彼に与えたのだ。  彼はその日はじめて、伝説の楽曲を耳にした。  そこで鼓手の役割は、大太鼓を三回、銅鑼《どら》を二回打つ、ただそれだけのものだった。 「だからこそ、鼓手はことさらに感覚を磨《みが》かなくてはいけないのだ」とシグビルゴは説明した。  笛や弦楽器ならば、ささいな誤りは聞き逃がされる。しかし、鼓手の仕事はそうはいかない。  音が単純であればあるだけ、また曲全体に占める回数や時間が短いだけ、それは完成したものであることが求められる、と彼は力説するのだ。  少年見習い鼓手ケランベランとなったカルファは、しかし、彼の論理をよく納得できなかった。  ただ数回打ち鳴らされるだけの太鼓や銅鑼が、その長大な曲に何か影響を与え得るとは思えなかったのだ。  まして、それを鳴らすために、どれほどの技が必要だというのか。  そのことを率直に口にすると、シグビルゴは激怒した。  そして、「ならば、自分で打ってみよ。そうすれば嫌《いや》でも違いが分かるだろう」と言って、彼に撥《ばち》を突きつけた。  彼は打った。  シグビルゴは唇《くちびる》を歪《ゆが》め、首を左右に振った。 「駄目《だめ》だ、駄目だ、まるで、なっていない……」  シグビルゴは、勝ち誇ったように彼から撥を取り上げ、そして、自ら、大太鼓を打った。  二度、三度と、呼吸を整え、全霊を傾けるかのように身構えて、それを打った。  確かに、幾分張りつめた、澄んだ音がそこから響いた。  だが、少年鼓手ケランベランは、自分の音と師の音の間に、それほどの差があるとは到底感じとることができなかった。 「どうだ……」  シグビルゴは、わずかに顔を上気させ、満足気なつぶやきを洩《も》らす。 「……うむ……まだ、おまえには、分からぬかもしれぬ。五年、十年と、このことひとつに打ち込まなくては、なかなか、本当の音色、その艶《つや》や拡《ひろ》がりまで聞き分けることはできぬものじゃ。だが、まだ、よいわ。時間はいくらでもある。わたしが、鼓手の座をいよいよ退くその日まで、おまえを鍛えに鍛え、磨《みが》きに磨いてみせる。よいな、その覚悟だけはできているな?」  その時だ。  見習い鼓手ケランベラン、かつてのカルファ少年は、自分が、取り返しのつかぬ過ちを犯してしまったのではないか、という思いに駆られて、背筋を震わせた。  五年……十年……  そして、さらに、正鼓手となってからの十年……二十年……  その時間を、半日に数度打ち鳴らされるだけの太鼓と銅鑼《どら》に捧《ささ》げつくさねばならぬとは……  彼は突然、この誇り高い宮廷楽士の世界全体に、救いようのない退廃がはびこっているのを感じた。  それは、ただわだかまり、降りつもった時の塵《ちり》の中に埋もれた、虚構の栄光だった。  そして、誰《だれ》もがそれに気がついていないか、あるいは忘れ、あるいは忘れたふりをしているのだ。  彼の少年の目は、その一瞬、いびつな、時の重圧に歪《ゆが》んだ楽土たちの世界をはっきりと見抜いた。  だが、遅かった。  ここは、王宮だった。この閉鎖された宇宙にあって、いったいどこへ逃れられるというのか。  ただ、王だけが、外の世界への自由を持っていた。ただ、王だけが……。  見習い鼓手ケランベランは、罠《わな》にはまった小さな獣のように、目ばかりを光らせて後退《あとずさ》った。  そこに、いきなりシグビルゴの鉄拳《てつけん》が飛んできた。  彼は、一撃で床へ叩《たた》き伏せられた。 「もう二日もすれば、物を考えるということが、いかに罪悪かが分かってこよう。それまでの辛《つら》さだ、それまでだ……」  シグビルゴは言い、ケランベランに手を差しのべた。  少年はきっと目を剥《む》き、それを無視した。  と、今後は、わき腹にしたたかな蹴《け》りを食った。  ケランベランは床をのたうった。  呻《うめ》き、そして泣き声を上げた。 (逃げてやる!)  ただ、その思いだけが、彼の頭に充満した。 「逃げられるものか、逃げられはしない」  彼の心を見透かしたようにシグビルゴは言った。 「わたしも、そうだった。若い時のわたしは、ただ逃げることばかりを考えていた……だが、もうすぐに分かる。全《すべ》てが、分かる……」  シグビルゴは薄く笑った。 「…………」  少年はうつむいた。 「楽になる……もうすぐに、楽になる。そのためには、ただただひたすら鼓手としての鍛練《たんれん》にはげめばよいのだ。分かるな? そして信じるのだ。宮廷楽士たることの誇りを信じるのだ。そして、音の違いに耳を澄ませるのだ。すると、いつしか、それが分かってくる。いや、分かると信じられるようになる。それが、全てだ。鼓手となるための、それが全てだ……」  そこは、宮廷楽土たちの共同の練習場だった。  回りには大勢の楽士たちが、てんでに自分の楽器を操って余念ない。  しかし、彼等の練習とて、鼓手のそれに比べて、決して複雑なものとは思えなかった。  宮廷の楽曲とは、そうした極めて単純な音を、ただひたすら積み上げることで巨大な交響を作り出すものだった。  つまり、それを奏する個人を完全に抹殺《まつさつ》してしまうのが、その音楽の本質だったのだ。  今こそ、少年は、その意味を悟った。  それは、実に、世界そのものを表現する音楽だったのだ。だからこそ、それは、王のために演奏されなくてはならなかったのだ。  その時、突然、あたりがざわめいた。  それまで、この二人、師と弟子のやりとりに全く関心を示そうとしなかった大勢の楽士たちが、いっせいに身を固くして立ち上がりはじめたのである。 「王だ」 「無名王がお通りになる」  ささやきが波のように走り抜けた。  第四話 雷王バウ  一瞬、ひるがえる真紅《しんく》のマントと、右手に握られた奇怪な金属杖《きんぞくじよう》の鈍い光沢が、ケランベランの目の隅《すみ》を横切った。 (無名王だ!)  彼は息を呑《の》んだ。  王を、これほど間近にするのは、もちろん、はじめてのことだ。  思わず、少年らしい好奇心に駆られたケランベランは、立ちつくす楽士たちの人垣《ひとがき》を分けて前に出ようとした。  だが、その襟首《えりくび》をシグビルゴにむんずと掴《つか》まれて、背中をいやというほどどやしつけられた。  たまらず、ケランベランは床に四つん這《ば》いになった。  それでも首だけは上げて、王の行方を目で追おうとした。  しかし、その時すでに無名王の姿は消えていた。  王は、楽士たちがたむろする広間のわきの回廊を、まるで風のように通り過ぎてしまっていた。  その後を追って、息を切らした数人の大臣と手に手に長槍《ちようそう》をかまえたいかめしい戦士団が駆け抜けていった。 「……中庭だ!」  誰《だれ》かが叫んだ。 「王は中庭に下りるぞ!」 「なんだ? 何が起こったんだ!?」 「こっちだ! 王が出てくる……」  ただならぬ無名王の出現に、楽土たちは押し殺した声で口々に言い交わしながら、今度はどっと窓際へ向けて動いた。  その窓から、一階層下にある中庭を見下ろすことができたのだ。  今後は、ケランベランも、素早く人々の動きに従った。  さっきはしかりつけたシグビルゴも、何やらぶつぶつ言いながら、ケランベランとともに窓際へ寄ってきた。  そこで楽士たちは床にひざまずいた。  石の窓枠《まどわく》の上に目だけを出して、中庭の様子をうかがおうというのだ。  やはり、立ったままそこに鈴なりになることがためらわれたからだ。  ケランベランもその雰囲気《ふんいき》に気付き、彼等にならって、窓枠にしがみついた。  と、回廊を抜けた無名王の姿が、中庭を囲む露台の上に現われた。  ここからでは、その表情まで見分けることはできない。  しかし、マントをなびかせながら、中庭へと通じる石段を駆け降りてゆく身のこなしは、むしろ繊細すぎるほど若々しく見えた。 「どうしたんだ!?」 「分からん……」 「それにしても、あの慌《あわ》てようは……」  ケランベランの背後にうずくまる数人の楽士が、また、ざわめきだした。  その時——  中庭の噴水をはさんで、王が降りてきた階段のちょうど反対側にあたる小さな木のくぐり戸が、乱暴に押し開けられた。  そして、二人の兵士に引きたてられるように、ひとりの襤褸《ぼろ》をまとった男がそこに連れ出されてきた。  見下ろす楽士たちは、水をうったように静まり返った。  そして、今しも展開されようとしている出来事に目をこらした。もはや身じろぎする者もいない。  ケランベランは、息をつめた。  今や、中庭では、噴水の奏でる涼し気な音だけが、その場の緊迫も知らぬ気に響き渡るばかりだ。  石段を駆け降りた王、そして木戸をくぐって連行されてきた男の目が、そこで出会った。  そのまま、二人は凍りついたように立ちつくした。  王が無言のままにらみつけているその男は、異様ともいえる風貌《ふうぼう》の持ち主だった。  もつれてほこりまみれの蓬髪《ほうはつ》とのばし放題のひげは、完全にひとつのものとなって男の顔面の大部分を覆っている。それは、まだらな灰色だ。  顔面には、額から頬《ほお》にかけて走る醜《みにく》い鉛色のひきつれが見てとれた。  さらに、その容貌以上に、男がまとっている襤褸《ぼろ》もまた奇妙な代物だった。  仕立てられた時の様子を想像するのが難しいほどにあちこち破れ、またすり切れていたけれど、少なくともその素材は、ケランベランが知っているどんなものとも違っていた。  強《し》いて言えば、質感は動物のなめし皮に似ているかもしれなかった。だが、その破れ目を見れば、その衣服が革製でないことは明らかだった。  そして、その襤褸のあちこちには、全く用途の知れぬ金属片や、大小さまざまな形状の小袋のようなものが、取り付けられている。  恐らく新品であった時は、さぞや複雑な作りの衣服であったことだろう。  また、襟口《えりぐち》には、星型の小さな記章のようなものが二つ、並んで光っていた。  しかし、見守る人々を本当に驚かせたのは、その姿形ではなかった。  彼等の心に衝撃を与え、さらに怖れに似た気持ちさえ抱かせたのは、男が片手に持つ一本の杖《つえ》だった。  いや、それは、ただの杖ではない。  長さはおよそ、地面から人間の胸の下あたりまである。  男が下に突いている方がわずかに細い。  そして、その握りの周辺に、異様な意匠《いしよう》の突起やくぼみがある。  それは、金属性の鈍い光を放っていた。  ケランベランは、うろたえながらも、その男の杖と、無名王が握る金属杖《きんぞくじよう》とを幾度も、幾度も見比べた。  だが、どこをどう比べてみても、そのふたつに違いがあるようには思えない。 (同じだ……あの男、無名王と同じ金属杖を持っている!)  その杖こそは、無名王の神秘的な存在と強大な支配力を象徴する聖器の一種と考えられていた。  それと全く同じものを、得体の知れぬ、乞食《こじき》同然の流れ者が手にしているのだ。  人々は呆気《あつけ》にとられ、そして畏《おそ》れた。 「……見つけたぞ……ようやく、見つけたぞ、ビーク……」  ついに、その男が口をきいた。  獣の唸《うな》り声に似た低い声だ。 「……きさまを見つけるまでは、死んでも死にきれん……その思いだけで、きさまを追ってここまで来た……くそったれめが!」  その無礼極まりない言葉を聞いて、周囲を固める兵士たちは驚き怒った。  長槍《ちようそう》を振りかざし、男につめ寄ろうとする者もいる。  しかし、無名王は、そんな動きを無言のまま制止した。  なおも、その男を見据《みす》えて立ちつくしている。 「そうか……これが、きさまの砦《とりで》というわけか。いや、立派なものだ。なんとも、笑わせてくれるじゃないか……」  男は、顔面を縦に横切る醜い傷痕《きずあと》を歪《ゆが》めてそう毒づいた。 「……だが、もう怖れる必要などないんだ、33……部隊は、おまえの裏切りで、見事に全滅を喫《きつ》した。パムフの第二分隊で生き残ったのは、この俺《おれ》とガウト・43の二人だけだった。もっとも、ガウトの野郎も、ここまでは辿《たど》りつけなかった。死んだよ。野垂《のた》れ死《じ》にだ。……それにしても、また、ずいぶんと遠くまで逃げてきたもんじゃないか、え? 33よ……」  男の目に、狂暴な光が宿った。 「さあ、33! 俺と勝負しろ! こんな大げさな砦《とりで》を築いて、俺たちを迎え撃つつもりだったのかもしれんが、生憎《あいにく》、生き残ったのは俺ひとりだ。決着は、俺とおまえの二人でつけるしかない。さあ、裏切り者! かかってこい!」  男はわめいた。  そして、金属杖《きんぞくじよう》を両手でかかえ直すと、その先端を、無名王の胸元に向けた。 「……ゴブル・32、わたしは、あなたを尊敬する……」  ついに、無名王の唇《くちびる》が動いた。 「なにっ!? ふざけるな」  男は、予想もしなかった言葉に驚いたのか、身構えたまま、一歩後退った。 「……あなたは、素晴らしい指揮官だった。わたしは今でも、指揮官としてのあなたを敬愛している……」  無名王は身じろぎひとつせず、男に言った。 「それが、裏切り者の口に出来る言葉か!? きさまはもう、俺《おれ》にとって敵と同じだ。いや、敵以上に憎い存在だ。部隊全員の信頼にツバを吐きかけ、俺の部下を死地に追いやった。許せん! 俺は許さんぞ、ビーク・33!」 「今のあなたには、何を言っても言い訳に聞こえるだろう。だが、わたしは、あそこで、決して誤った行動をとったとは思っていない。もっと言えば、味方を裏切ろうとしていたのは、むしろ、あなたの方だ。それだけは、はっきりと言っておきたい」 「敵前逃亡が、裏切りではないというのか!? 最も重要な砲座をまかされながら、敵の総攻撃を前に、自分一人だけ逃げだした男が、裏切り者ではないと言い張るつもりか!?」  男は全身をぶるぶると震わせ、そう叫んだ。 「あなたは信じたくなかったかもしれないが、あの時点ですでに、我が部隊の敗北は決定していた。どうあがいても、包囲を破り、脱出できる可能性は皆無だった」 「ならば、逃亡してもいいというのか!?」 「敵は幾度も、降服を勧告してきた。しかし、あなたは、どうしてもそれに応じようとしなかった」 「当たり前だ! 戦闘能力が残存しているというのに、どうして降服する必要がある!? 我が戦鬼兵団の士気は極めて高かった。あの時、きさまが、峡谷《きようこく》の入り口の砲座を放棄《ほうき》しさえしなかったら、俺《おれ》たちは、まだまだ、頑張《がんば》れた。それを、ささまが……」 「しかし、そうできたからといって、一体、何になる? あの状況で闘い続ける限り、どの道、部隊の全滅は避けられなかったはずだ」  無名王が、一歩前に出た。 「何になる、だと——? そんなこと、俺の知ったことか! 軍邦民たるもの、闘えるかぎり闘い続けるのが本分じゃないのか!?」  男は近付こうとする無名王を威嚇《いかく》するように、手にした金属杖《きんぞくじよう》を振り上げた。  周囲を固める戦士が、いっせいに槍《やり》の穂先《ほさき》を、男に向けて突きつけた。  だが、再び、無名王は、彼等を制した。  そして、さらに、一歩前へ出た。 「あなたは、分隊長として、まれに見る有能な指揮官だった。それは、誰《だれ》もが認めていた通りだ。だが、その戦闘員としての非凡さが、逆に、あなたの視野を極端に狭いものにしていたのだ」 「なんだと!?」 「そして、あなたは、そのために任務の本質を忘れ、結果的に味方に対する重大な裏切り行為を犯そうとしていた」 「きさま……」 「あの時、峡谷《きようこく》の奥には、我が軍とともに敗走してきた味方の非戦闘員、女子供や市民たちが約四百以上押しこめられていた。我々の部隊に与えられていた任務は、彼等を安全な土地まで護送せよというものだったのではないのか?」 「だが、敵の追撃が予想以上に急だったのだから、どうしようもあるまい」 「いや、違う。あの谷の入り口で我々がいつまでも頑張《がんば》り続けたら、彼等はどうなる? 逃げ場もなく、ただ放射能灰にさらされることになったはずだ。その彼等を救う手段は、ただひとつ、降服しかなかった。しかし、あなたは、そんな意見に耳を貸そうともしなかった。そこでわたしは、砲座手たることを放棄《ほうき》して飛攻艇《ひこうてい》ともども逃亡し、敵を谷へ招き入れたのだ。一瞬でも早く、戦闘状態を終結させるために——」 「き、きさまというやつは……それで味方がどうなったと思う!? 部隊は全滅し、居留民も四百人全員が、やつらの捕虜《ほりよ》にされたんだぞ!」 「それでも、あの谷に閉じ込められ、じわじわと放射能に灼《や》かれて全滅するよりは、はるかにいいではないか! 違うか!?」  無名王に言い返され、その異様な風体の男は、ぎりぎりと歯を鳴らした。 「そ、そんなことで言い逃れができると思っているのか? 俺《おれ》はなあ、心に誓ったんだ。きさまの裏切りで、ろくに反撃もできぬまま死んでいった部下の恨みを、きっと、晴らすと……それだけを心の支えにして、ここまで追いかけてきたんだ……」  男は言いながら、金属杖《きんぞくじよう》の先端を、再び無名王の胸元に向けた。 「……いいか、ビーク・33……そんな、たいそうなことを言っていながら、じゃあ、この兵隊たちはなんだ!? この砦《とりで》のような城はなんだ! きさま、俺たちが、いつか仕返しにやってくると思って、こんなものを用意していたんだろうが! 違うか、え? しかし、もし、俺たちが昔の部隊だったら、こんな石ころと泥《どろ》の砦など、たったの五分で蒸発させてやるところだ! だが、残ったのは俺ひとりだ。俺ひとりで、きさまを殺《や》る!」  男は蓬髪《ほうはつ》とひげを震わせ、狂ったように叫んだ。 「ゴブル・32……あなたの勇気には、本当に頭が下がる。わたしは、この城の王だ。その王の前で、そのような振るまいに出るとは、まるで殺してくれと頼んでいるようなものではないか。分隊長、もし、本当にわたしと決着をつけるつもりなら、それ以上、不用意に動かない方がいい。わたしが、どう制止しようと、あなたがわたしに危害を加えようとすれば、兵士たちは容赦《ようしや》なく、あなたを槍《やり》で串《くし》ざしにしてしまうだろう。だから、それ以上、動いてはいけない」  無名王の声は、あくまでも静かだった。 「そんな脅《おど》しが、この俺《おれ》にきくと思っているのか!?」  男が吼《ほ》えた。 「それと、もうひとつ教えたいことがある……」無名王は、構わずに言葉を継いだ。 「この城は、決してあなたたちの部隊を迎え撃つつもりで築いたものなどではない」 「では、きさまが怖れる敵とはなんだ!? これほどの大げさな砦《とりで》を築かなくては守れない敵とはなんだというんだ? もっとも、きさまは、戦友を平気で見棄《みす》てて敵前逃亡するような男だ。きっと、自分の影にでもおびえていることだろうて」  男は、思いきり、その顔面を歪《ゆが》めた。  冷笑の表情をつくっているつもりらしい。  それに対して、無名王は、なぜか、薄く笑った。  そして、答えた。 「その通りだ、ゴブル・32、わたしが怖れているのは、わたし自身だ……そのために、わたしは、自分の王城を、さらに、さらに大きく築き続けなくてはならないのだ……」  王の声は、ひとり言のように聞こえた。 「……わたしが怖れるものは、ただ、自分だけだ……それだけだ……」 「ええい、黙れ! この裏切り者め。ならば、この俺《おれ》など怖くもなんともないはずだ。勝負しようじゃないか、え? 一対一で、戦場の決着をつけようじゃないか。俺もかつては、きさまの上官だった男だ。そして俺は、これまで部下に、一度だって勝手な真似をさせたことはなかった。そんなことをしようとする奴《やつ》には、とことん思い知らせてやるのが俺の主義だった。俺は最後まで、この俺の軍人としての信念は守る! さあ、かかってこい!」  男は言った。そして、地面を足の裏でかくようにしながら身構えた。  手にした金属杖《きんぞくじよう》の先が、挑発《ちようはつ》的に下を向いた。 「……いいだろう……」  無名王がつぶやいた。 「いけません、こんな流れ者を相手に、何をなさろうというのです!?」 「そうですとも! こんなことになるのなら、こやつに城門をくぐらせたりするのではなかった。おい、衛兵! かまわないから、この男を始末してしまえ。引きずっていって八つ裂きにしてやるんだ!」 「まったくだ。王の眷族《けんぞく》などと名乗りおって! その杖《つえ》ですっかりだまされたわ」  臣下の者たちが口々に王をいさめ、そして男に詰め寄ろうとした。 「やめろ! 手出しをするな! これは、わたしだけの問題だ。おまえたちの指図は無用だ!」  激しい口調で、無名王が怒鳴った。  と、いきなり、そのスキをついて、男は横に動いた。  そうしながら、手に握ったその奇怪な金属杖の突起部のひとつを、思いきり後に引いた。  そして、杖の先を無名王に向けようとした。  咄嗟《とつさ》に、無名王は地面に身を投げていた。  そのまま一回転、中庭の石だたみの上を転がり、目にもとまらぬ動作で、やはり、同じように自分の持つ杖の一部を操作した。  目を上げた男は、一瞬、王の姿を見失ったらしい。  しかし、すぐに気付いて自分の持つ杖の先を地面に向けた。  その一瞬、人々は、王が握る杖の先から、何か雷に似た強烈な光がほとばしるのを見た。  それが、男の胸のあたりに放射されたのだ。  微《かす》かに、ジュッ……というような低い音が聞こえた。  それを発したのが王の杖なのか、それとも、その光に灼《や》かれた男の身体《からだ》だったのかは、誰《だれ》にも分からなかった。  ともかく、男は突然、弾《はじ》かれたようにのけぞり、そのまま杖《つえ》を放り出して石畳に叩きつけられていた。  それは、不可思議で、奇妙で、そして神秘的な闘いだった。二人はついに、最後まで、その身体はおろか、得物すら触れ合わせはしなかった。  にもかかわらず決着はつき、男は打ち倒されたのである。まさに、奇跡を見る思いだった。  兵士と、それに臣下の列から、いっせいに悲鳴とも歓声ともつかぬ声が湧《わ》き起こった。  すぐに呆《ほう》けたような状態から脱した数人が、無名王を助け起こそうと駆け寄った。  あるいは、長槍《ちようそう》をかまえて、倒れた男めがけて突きかかろうとする兵士もいる。  しかし、無名王の動きはさらに早かった。  王は真紅のマントをひるがえし、がばと跳《は》ね起きると、そんな彼等をなぎ払うように金属杖《きんぞくじよう》を振り回し、男に跳《と》びついた。  そして、その肩を抱き上げた。 「……ビーク……33……」虫の息で、男はつぶやいた。「……分かっていたんだ……俺《おれ》が間違っていることを、俺は知っていたんだ……だからこそ、俺はこうして、きさまを追ってきた……そして、きさまが腰抜けなんかじゃないことを確かめたかったんだ……きさまが、死ぬのを怖れて逃げだしたんじゃないことを……だから、俺は、きさまを挑発《ちようはつ》した……」 「なんてことを……」  男のかたわらに落ちた金属杖を引き寄せながら、無名王が呻《うめ》いた。  その声が、今や、再び静まり返った中庭に重く流れた。  誰《だれ》もが口をつぐみ、そのふたりの不可解なやりとりに耳を傾けていた。  男は喘《あえ》いだ。空気をむさぼるように吸い込み、そして、激しくむせた。  唇《くちびる》から、大量の赤い血があふれ出した。  それが、男の灰色のひげを濡《ぬ》らした。 「……しかし、思っていた通りだ……」男は、ほとんど聞きとれないほど弱々しい声で続けた。「……きさまは、やはり、勇敢《ゆうかん》な、訓練された戦闘員だった。王などと呼ばれる身分になっても……俺《おれ》を相手に、ひとりで闘おうとした……俺は、うれしい……もし、きさまが、自分の部下に俺を殺させようなどとしたら、俺はその場で……舌をかみ切ってやるつもりだった……そして、地獄《じごく》で俺の仲間たちに、きさまは、腐り切った根っからの腰抜けたと報告してやるつもりだった……」 「ゴブル! このバウには、エネルギーが入ってないじゃないか!」  男の握っていた金属杖《きんぞくじよう》に目を落とした無名王が、唐突《とうとつ》に叫んだ。 「そんなもの……ここへ来る途中で、とうに使い果たしたさ……」  男の口元が歪《ゆが》んだ。 「……では……あなたは、最初から死ぬつもりで……」  無名王が絶句した。 「同じことだ……同じことだよ、33……きさまは、腰抜けじゃなかった……それだけは、はっきり、分かった……きさまは、立派な……俺の部下だ……最も勇気ある……戦闘員だった……俺の目に、狂いはなかった……」  男はまた、大量の血を吐いた。 「ゴブル・32……」  無名王が、男の肩を握りしめた。 「……さあ……そろそろだ……あっちで待ってるやつらがいるからな……俺はいかにゃならん。心配するな……きさまの悪口は誰《だれ》にも言わせん……きさまが来る日には、みんなで笑って出迎えてやる……だから、まちがっても天国なんかへ行くんじゃないぜ……お別れだ、33……しかし……きさまが言う、その敵とは……いったい……」  言い終えずに、男は死んだ。  見守る人々の目には、まだ、紫色の残像が灼《や》きついていた。  それは、王の握る金属杖から発せられたすさまじい雷光の後遺症だった。  その紫色のしみがちらつく視界の中で、無名王は、男の遺体を抱き上げ、そして静かに立ち去ろうとしていた。  終わった……ひとつの事件が、ともかくも終わった。  だが、その意味を判断できる人間は、少なくともここにはいないようだった。  人々はただ、驚きに痺《しび》れた頭で、その光景を反芻《はんすう》するばかりだった。  以来、無名王が持つ金属の杖《つえ》は、宮廷の人々によって�雷杖《らいじよう》�もしくは�バウ�と呼ばれはじめた。  その神秘的な杖の噂《うわさ》は、さらに伝説化して王国中に広まり、やがて人々は、彼に雷王バウの名を与えたのだった。  第五話 太陽の砦  その日、王宮では、王城の東面に新しく築かれた≪太陽の砦《とりで》≫の完成を祝う、盛大な宴の準備が進められていた。  少年カルファが、ケランベランと呼ばれるようになってから、ちょうど六百八十日目のことである。  そして今夕の宴は、彼、ケランベランにとっても、特別の意味を持つものだった。  というのも、彼の師シグビルゴが、その日はじめて、彼に、正鼓手として楽士団に加わることを許していたからである。  ケランベランは、朝早くから、そのための準備に忙殺されていた。  まず、彼のために新しくあつらえられた黒地に金の縫いとりがある豪華《ごうか》な衣裳《いしよう》を着て、宮廷楽士たちの間をあいさつして回る儀式があった。  そのあいさつには、相手の階位によって複雑微妙に異なるしきたりがあり、それを覚えきるまで、すでにケランベランは、六十日以上を費やしていたのである。  宮廷楽士の数は、全部で六百名余り。  とても一日で回りきれるわけはないから、階位の低い者へのあいさつは昨日までに、もう終わっていた。  今日は、残る高位の楽士十九人の居室をひとつひとつ尋ねて、この先正鼓手をつとめる旨《むね》の口上を述べなくてはならないのだ。  その、ひとりひとりに対するあいさつは、二千語にも及ぶ長大なもので、しかも内容が、皆異なっていた。  そして、もし間違えば、それは相手への最大級の非礼、侮辱《ぶじよく》と受け取られ、彼はまた見習いの身分にもどされて、六百八十回のつらい、苦しい夜と昼を過ごさねばならない掟《おきて》だった。  その意味で、この儀式は、正楽士たらんとする者への試験の一種でもあった。  噂《うわさ》では、ほんのささいな誤りをつつかれて、五回にわたって道を閉ざされた見習い楽士もいたという。  ケランベランは、喉《のど》がからからに干上がるほど緊張のし通しだった。  だが、約半日をかけて、彼はついにその披露目《ひろめ》の儀式を終えた。  ひとつ、ふたつと、心臓が縮み上がるような失敗もしたが、幸い、それは見逃された。  彼等は皆、ケランベランの初々《ういうい》しい美貌《びぼう》をほめたたえ、それを代償として瑕瑾《かきん》に目をつぶってくれたのだった。  ともかくも、ひとつの関は抜《ぬ》けた。  控えの間に引き上げてきたケランベランは、そのまま気を失ってしまいそうなほど精力を使い果たしていた。  だが、彼の今日の役目は、それで終わったわけではない。  いや、むしろ、正楽士としての第一日目が、ようやくはじまったばかりなのである。  彼の師である老鼓手シグビルゴは、まるで酒に酔ってでもいるかのように上機嫌《じようきげん》だった。 「どうじゃ、え? 正鼓手となった気分は?」  シグビルゴは、ケランベランを抱き寄せ、まるで女に対するような熱っぽさで頬《ほお》ずりした。 「……だいじょうぶ! おまえなら、全《すべ》てをうまくこなしてゆける。これからが、華《はな》だ。おまえ自身が、宮廷の花となるんだ。いいか? 何も考えるな。余計なものには目をくれるな。そして、楽しむことだ。これまでわたしは、おまえに苦しみばかりを教えてきた。だが、これからは楽しみの師となろう。よいな?」  シグビルゴは、ケランベランの腰に手を回し、控えの間の柔らかな敷き物の上に誘った。 「これからは忙しくなるぞ。出番はいくらでもある。おまえは、まったくいい時期に正鼓手となったものだ。出番が多ければ、それだけご婦人方の目にもとまろう。そう……彼女たちを楽しませるのも、楽士たるものの務めなのだからな……」  シグビルゴは、口元をみだらに歪《ゆが》めてみせた。 「まあ、おまえには、まだよく分からぬだろう。が、それもしばらくの間だけだ。すぐに、誰《だれ》もが、手とり足とり教えてくれる。もちろん、わたしも、おまえの師として、伝えるべきことは伝える。よいな?」  シグビルゴが、微妙な指使いで全身をなで回す気味悪さに、ケランベランは必死で耐えていた。  彼はこれまでの毎日によって、耐える、ということにだけは充分過ぎるほど慣らされていた。  いや、ケランベランと呼ばれるようになってからの六百八十日は、ただ�耐える�ことによってだけ成り立っていたとすら言える。  耐えること……そして、いつの日か、この閉ざされた世界から逃げ出すこと……ケランベランの心の中には、このふたつを結ぶ脈絡しかなかった。  その自由への想いだけが、彼を支えていたのだ。  そして、今日という日は、彼にとって、その第一歩でしかなかった。  六百八十日の忍耐によって、ついに踏み出した第一歩である。そのことが、うれしくないはずはない。  だが、それ以上の喜びは、彼には全くない。  ましてや、正鼓手となって、人々の前に顔をさらすことを考えると、むしろ嫌悪《けんお》感が先に立った。 「……本当に、おまえはいい時期を選んだものだ。王城は、これからも、まだまだ大きくなるだろう。新しい館《やかた》や庭園、会堂や砦《とりで》が、三日とおかずに続々と完成している。そのたびに、おまえは、式典や祝宴の花として、宮廷人たちの注視を浴びることになるわけだ。ああ……その若さが、わたしにはねたましいほどだ。これからだ……これからおまえは、かつてのわたしと同じように享楽《きようらく》の全《すべ》てを知り、そして、それ以外のことを皆忘れてゆくのだ。それでいい……それが人生というものなのだ」  シグビルゴは、またケランベランの滑らかな頬《ほお》に自分の顔をすりつけてきた。  しかし、ケランベランは、されるがままに、頭の中で、全く別のことを考えはじめていた。 (……三日に一度の祝宴……)  シグビルゴが言ったその言葉は、決して大げさではなかった。  今日完成が祝われる≪太陽の砦≫をはじめとして、この先、十に余る建造物や施設、庭園が、落成の式典を待っているという。  それでもなお、王城の建設は終わる気配がなかった。  その規模を、果てしなく拡大させてゆくための工事が、宮廷の四周では際限なく続けられていた。  かつての無名王、そして現在は雷王バウと呼び慣らわされはじめたこの王国の主《あるじ》は、まるで、何かにとり憑《つ》かれでもしているかのように、巨大な王城をさらに巨大に、複雑に、東西南北あらゆる方角に増殖させようとしていた。  そのために、ようやく出来上がったばかりの市街地が、城の用地として容赦《ようしや》なくとりつぶされ、そこに住む人間たちが追い払われるという事態が続いていた。  人々は仕方なく、土地から立《た》ち退《の》き、また王城の周囲に新しい街をつくる。  だがすぐに、その後を追うように、雷王バウは、城の拡大を命ずるのだった。  それでも人々は、この都から逃げ出すようなことはなかった。  いくら追い立てられようとも、この都には、その建設がかもしだす活気があった。  どれほどの財産を一時的に失おうと、それをすぐに埋めてくれるだけの富が都にはあふれていた。  だから人々は、幾度土地を追われ、家をとりつぶされようと、また新しい街区を王城の周囲に拡げ続けようとしたのである。  王城の肥大と、それにまとわりつくようにして拡大してゆく王都の発展は、まるで、ある種の菌類どうしの生存競争を思わせる図だった。  それはまさに、ひとつの闘いと言えた。  しかし……いったい……なぜ、雷王が、それほどまでに王城の巨大化に執念を燃やすのか、その理由は、誰《だれ》も知らなかった。  工事はまるで、この世界全体を、自らの城によって覆いつくさねば気が済まぬとでも考えているような執拗《しつよう》さで続けられていた。  さまざまな噂《うわさ》があった。  王は、心の底で、何かを怖れ続けているのだ、と主張する哲人たちがいた。  彼等は、かつて、宮廷の奥深い中庭で演じられたという伝説の異邦人とのやりとりから、その推測を持ち出してきた。  はるか西からやってきたらしい異形《いぎよう》の流れ者……彼は、王と全く同じ、魔を行なう杖《つえ》を手にしていたというではないか……王は、その一族を怖れ、それに備えるために巨大な城塞《じようさい》を築こうとしているのだ、と彼等は言った。  その証拠に、王は男とのやりとりの中で�わたしが怖れるのは自分自身だ�と語ったという……それは、自分自身と同じ力を持つ者、即《すなわ》ち、王同様に雷杖《らいじよう》を持つことのできる人間、という意味に違いない……王は、そのような人間が、いつかこの都へと上ってくることを予感しているのではないか。王は、その怖れを出来るだけ遠ざけようと、憑《つ》かれたように城をはるかかなたまで拡げようとしているのだ。そうやって、自分と外界との距離を遠くし、いずれは、それを絶ち切ってしまおうと考えているのだ……哲人たちの意見はそうだった。  その他……王はいずれ、広大な王城の中に、この世界の人々|全《すべ》てを迎え入れ、そこにこの世の極楽を生み出そうとしているに違いない……といった、まことに夢想的な考えを述べる者もいた。  だが、いずれにせよ、人々は、何ひとつ理解はできないままに、雷王の所業を受け入れる他なかった。  王城の拡大とともに、すでに雷王は人々にとって、文字通り、神のように遠いはるかな存在となっていた。  人々は、王を、ほとんど神と等しいものとして考えはじめていたのだ。  そして、いつの世も、神の意志は計りがたいものだったのである。  しかし、今や、ケランベランにとって、雷王は実体のない不可知的存在ではなくなろうとしていた。  今夕、彼が正鼓手として参加する祝宴には、必ずその王の姿が見られるはずであった。  彼の心の中には、今日から六百七十九日前、あの楽士たちの練習場の窓からのぞき見た王の印象が、鮮やかに刻まれていた。  真紅のマント……そして、後に雷杖と呼ばれることになった奇怪な杖《つえ》……�わたしが怖れるのは自分自身だ�と叫んだ、その声……杖の先から発せられた目もくらむような雷光……そして、いつまでも目の奥に残った紫色の残像……全てを、ケランベランは、昨日の出来事のように、ありありと思い出すことができた。  しかし、以来、ケランベランは、その王の姿を目にする機会を持てずにいた。  わずかに数度、庭園の木々の間や、遠い望楼の上に小さく見え隠れする赤いマントを見かけたことはあったが、それがはたして雷王であったかどうかは定かでない。  しかし、今日——  彼は、その幻《まぼろし》の王を再び間近に見ることになるだろう。  そのことが、ケランベランにとって、今日という日の、もうひとつの心騒ぐ期待だったのである。 「……さあ、ケランベラン……そろそろ日も傾きかける。太鼓の皮に、湿りをくれてやる時間だぞ……」  妙に優し気なシグビルゴの声が、ケランベランの耳元でささやかれた。  耳朶《じだ》にかかるシグビルゴの息づかいで、彼は、はっと物思いから醒《さ》めた。 「……いいね……畏《おそ》れることは何もない……わたしも、祝宴の末席から、おまえのことは見守っている……そして、それが果てた後、わたしは今後は、おまえの楽しみの師として最初の手ほどきをするつもりだ……分かったね?」  シグビルゴの唇《くちびる》が、ケランベランのうなじに押しあてられた。  ケランベランは、走り抜ける悪寒《おかん》にじっと耐えた。  この老鼓手が、なぜ、彼という美貌《びぼう》の弟子を求めていたのか……そして虐待《ぎやくたい》にも似た鍛練《たんれん》を課して彼の自意識を、徹底的にくじこうとしたか……その本当の理由が、今日、次第に分かりかけてきたような気がした。  宮廷という、決して健全実直な人間ばかりではない楽団の中に暮らして、ケランベランも、もはやかつての、全くの無知な少年ではなくなっていた。  シグビルゴとケランベランという師弟に向けられる楽士たちの視線に、何か得体の知れぬ感情が込められているのにも、ケランベランは気付いていた。  さらに、今日、ケランベランの礼に応えた楽士たちの目が宿していたみだらな光……  それらの意味するものが、ついに正体を現わしはじめた、とケランベランは思った。  だが、今のところ、そのからみつく網から逃れる術《すべ》をケランベランは知らなかった。  彼はただ、その正体が、具体的な行為となって彼を見舞うその時を待つしかなかった。 「ああ……」  意味あり気な溜《た》め息《いき》とともに、シグビルゴの唇《くちびる》が、ようやく彼のうなじから離れた。  ケランベランは、なおも彼の腰にからみついているシグビルゴの手をそっとはずして立ち上がった。 「今日は、このサーダとホヴン、このふたつでよろしいのですね?」  ケランベランは、とってつけたように、演奏に必要な太鼓の種類を訊《き》く。 「……ああ、それでいい……それでいい……」  シグビルゴが、かすんだような目つきで首を振った。  その時、控えの間の扉《とびら》が開かれた。  見習い楽士になりたての少年が、深々と礼をして入室してくる。 「ご準備はいかがでしょう、正鼓手ケランベランさま。そろそろ、広間の方で、音合わせがはじまるようでございます」  使いの少年が告げた。  救われたような気持ちで、ケランベランは大小の太鼓を床から取り上げ、そのひとつを少年に託した。 「これを、先に運んでおいてくれ。わたしは、すぐに後から行く」  ケランベランは、大人《おとな》たちの口調を真似て、少年に命じた。  そして、シグビルゴの方に振り向いた。 「よし……行くがいい。立派だ……実に美しい……」  シグビルゴのつぶやきを背に、ケランベランは控えの間から、正鼓手としての第一歩を踏み出した。  第六話 反逆  王を迎えるための楽曲が、おごそかに奏でられている。  しかし、出だしの大太鼓の乱打を終えたケランベランには、もうこの曲は、縁のないものだった。つまり、それ以外に、鼓手の出番はなかったのだ。  ケランベランは、そのはじめての役目を終え、半ば放心したように、大太鼓のかたわらに座り込んでいた。  広間はすでに、酒と料理、さらに女たちの三つがかもし出す、複雑な、しかし甘美な芳香《ほうこう》に満たされていた。  大臣たちも、皆、それぞれに座についた。  あとは、雷王の登場を待つばかりだった。  それをうながすように、楽士たちは曲の調子をわずかずつ上げてゆく。  ケランベランは、ぼんやりと、それに耳を傾けていた。 (……あっ……弦が一人、まちがえたぞ……)  ケランベランは、それを聞きとった。  もちろん、大勢の音にまぎれて、列席者たちに気《け》どられることはない。  だが、六百八十日間、来る日も来る日も、ただ楽士たちの練習場で、その音を覚え込むためだけに過ごしてきたケランベランの耳は、その小さな失敗を聞き逃さなかった。 (……なるほど……何千回、何万回と同じ曲を繰り返していても、やはり、指が狂うこともあるわけだ……)  ケランベランは、その発見に、気持ちがなごんだ。  と、その瞬間——  突然、とてつもない思いつきが、彼の頭の中を横切った。 (まちがい……か!)  彼の全身が、細かく震えだした。  これまでであったなら、どれほど不器用を装っても、それに対して返ってくるのは、ただ倍の練習時間だけだった。  他の楽士にまじっての練習中に誤った音を出せば、飛んでくるのは鉄拳《てつけん》だった。  そして、それを繰り返せば、ただ正楽士への関門が遠ざかり、それだけ苦しみの日数がのびてゆくことになる。  つまり、逃げ道は、どこにもなかったのである。  だから、ケランベランは、ある時からことさらに従順な態度を示し、見習い楽士という名の苦界《くがい》から一日も早く脱出しようと努力した。  そのおかげで、六百八十日という、定められた最も短い期間で、正楽士たることを許されたのである。  そして、今や、彼は、本物の楽士たちとともに、こうして祝宴の席を賑《にぎ》わす役目についている。 (そうだ……今こそ……)  彼は、自分の思いつきの余りの大胆さに、思わず、目がくらむ思いがした。  これが、弦楽器や、管楽器を操る楽土であるなら、その反抗はほとんど無意味なものとなろう。  なぜなら、それらは、楽器ごと最低十三人ずつの楽士によって受け持たれることになっていたから、一人がおかしな音を出そうとしても、他の十二人がそれを打ち消してしまい、不協和音は、人々の耳までほとんど届きはしない。  だが、鼓手は違う。  鼓手は、ほとんどの場合、ただ一人で太鼓と銅鑼《どら》を受け持つ。  だから、その鼓手がまちがいを犯せば、誰《だれ》の耳にも、明らかに分かるのだ。 (今、ここで……王を迎えようとしているこの瞬間に、太鼓をひとつ、でたらめに打てば……)  その先がどうなるか、ケランベランにはまるで見当もつかなかった。  ただひとつはっきりしているのは、彼がそれ以上、正楽士のままでいられるはずがない、ということだった。  また、そんな致命的な過ちを一度でも犯した人間が、再び見習いの身分にもどされるというのも、ありそうにないことと思われた。 (ならば——どうなる……)  王宮からの追放か!……それならば、ケランベランにとって、全く願ってもない結果といえる。  あるいは、死罪か?……それとも、奴隷《どれい》まで堕《おと》されての重労働か……  だが、どうなるにしても、ケランベランにとって、それらは全《すべ》て、今よりはましな状態に思えた。  今日、この宴が終われば、待っているのはあの老鼓手シグビルゴの抱擁《ほうよう》、そして愛撫《あいぶ》に違いなかった。  ケランベランにも、そのくらいの想像はついていた。  そして、あの気味の悪いシグビルゴの頬《ほお》ずりを思い出すと、ケランベランは、身の毛がよだつのを覚えずにはいられなかった。 (それから逃れられるのは、今だ! 今しかない!)  一瞬の間に、ケランベランの覚悟は、みるみる固まりはじめた。 (……今しかない! そして方法は、これしかない……)  その時だ。  広間の端にある御簾《みす》が、ゆっくりと女たちによってかかげられた。 (来る……王が、雷王がお出ましになる!)  楽士たちの奏でる楽曲が、勇壮な主題の部分に入った。 (今だ……今しか、ないんだ……)  ケランベランは、必死で自分に言いきかせた。  そして、ともすればおびえ、尻込《しりご》みしようとする自分の心を鞭打《むちう》った。 (この巨大な王城の閉じた迷宮から……そして、シグビルゴのみだらな想いから逃げだすには、今しかないんだ!)  御簾が、さらにぐいと左右に開かれた。  そしてそこから、かつての無名王、今は雷王バウと呼びならわされるようになった一人の男が歩み出た。  歓声が上がった。  ついで、王をたたえる臣下たちの合唱がはじまった。楽曲は、ちょうど、その部分にさしかかっていた。ケランベランは、ついに姿を現わした王の姿に見入った。  その手には、あの伝説の杖《つえ》が無造作《むぞうさ》に握られていた。  そして肩からは、床近くまであるゆったりとした真紅のマントが垂れていた。  と、王は、それをひるがえして、広間の中心にしつらえてある玉座へと歩きだした。  それにつれて、居並ぶ臣下の声が次第に弱まった。  王が玉座につこうとする時、誰《だれ》一人《ひとり》として口を開いてはいけない、という掟《おきて》があったからだ。  当然、管楽器を受け持つ楽士たちも、それを口から離し、唇《くちびる》を引き結ぶ。  王は悠然《ゆうぜん》と進んで、今、玉座の下まで来た。 (今だ! 今しかない!)  叫びたてる心の声が、激しい動悸《どうき》をともなって彼をゆさぶった。  それはまさに、運命の分岐点《ぶんきてん》だった。  一瞬、ふたつの思いが、彼の頭の中で互いにののしりあい、せめぎあった。  宮廷楽士になりきり、家畜の安楽に身をまかすか……それとも、未知の自由へ向かって踏み出すか——  その葛藤《かつとう》は熾烈《しれつ》だった。  ケランベランは、自分の身体が実際に右と左に引き裂かれてしまうのではないかとさえ感じた。  だが、ついに、シグビルゴに対するどうしようもない嫌悪《けんお》の念が、ケランベランの気持ちを最終的に衝《つ》き動かした。  ドーン!  いきなり、ケランベランは大太鼓をひとつ打った。  ドーン!  さらに、もう一回——  それで充分だった。  楽士たちが、驚きの余り、全員その手を止めてしまった。  本来なら、何がなんでも演奏を続け、その許されざる音を、全体の楽曲の流れの中に消し去ってしまわなくてはならないはずだ。  だが、ケランベランの、余りにも断固たる太鼓の響きが、彼等の正常な判断能力をも凍《い》てつかせてしまっていた。  広間は今や、完全な静寂に包まれていた。 「う、ううう……」  どこか遠くの方から、男の洩《も》らす嗚咽《おえつ》の声が聞こえてきた。  シグビルゴに違いない、とケランベランは思った。  ケランベランは、今、その異様な沈黙の空気のただ中で、自分のしてしまったことに、大いにとまどっていた。とまどい、そして、そんなことをしてしまった自分に、あきれ返ってもいた。  これから、何がどうなるのか……彼はそれを想像する気にもなれなかった。  しかし恐らく、そんな彼以上に、シグビルゴの心は暗黒に閉ざされてしまっていることだろう。  その、かつての師のことを思うと、純粋な憐《あわ》れみの感情が、ケランベランの胸の内に湧《わ》き上がってきた。  微《かす》かに胸がうずいた。  静寂は、なおも続いていた。  それは、ケランベランにとってよりも、雷王を取り巻くあらゆる人々にとって、さらに耐えがたい沈黙であったに違いない。  誰《だれ》もが、誰かが動いてくれるのを待ち望んでいた。誰かが声を上げてくれるのを願っていた。  しかし、誰|一人《ひとり》として、その勇気を持つ者はなかった。  結局、人々の目は、玉座へと上る踏み台に片足をかけたまま、何事か考え込んでしまっている雷王に向けられた。  雷王もまた、一体の彫像のようにその姿勢を崩そうとしない。  長い長い一瞬一瞬が、ことさらにのんびりと過ぎていった。  と、ついに、雷王の真紅のマントが揺らいだ。  そして、踏み台にかけられていた片足が、ゆっくりと床にもどった。 「おまえ、名前は何という……」  雷王は、振り向きもせずに、問いを発した。  それがケランベランに向けられたものであることは明らかだった。  彼は、死を覚悟した。  だが、悔いはなかった。  なぜなら、これは、自分自身で考え、自分自身で選び取った道であったからだ。  そう考えると、気持ちが落ち着いた。  ケランベランは、大きく胸に息を吸い込んだ。そして、言った。 「わたしの名は、ケランベランと申します」  雷王のマントが、また揺れた。  ケランベランには、王が、背中をぶるりと震わせたように見えた。 「……なるほど、ケランベランか……そう……微《かす》かに、覚えがある…その名前だ、確かに……想い出した! 今こそ、思い出した。やはり……すでに、ここへやって来ていたのか……」  雷王が奇妙なことをつぶやいた。 「…………?」  ケランベランは眉《まゆ》を寄せた。  その時、王が彼の方に振り向いた。  そして、手にした杖《つえ》を彼の顔にぴたりと突きつけた。 「わたしといっしょに来るんだ、ケランベラン……いや、カルファよ……」  王が言った。  だが、その時、ケランベランは、王の言葉にひそむ不可思議に気付かなかった。  カルファとは、彼がこの王宮へ来る前の呼び名だった。  だから、彼は、自然にそれを聞いていた。  雷王がその名を知っているはずがない、とは、思いつきもしなかったのである。  ただ彼は、彼をじっと見つめる王の顔が、どこかでよく見知っている人間にとてもよく似ていると思いはじめていた。  だが、それが誰《だれ》なのか……ケランベランにはついに思いつけなかった。  第七話 死の抱擁  王城の奥深くへと続く、半ば闇《やみ》に閉ざされた長い長い石の廊下を抜けてゆく。  その磨《みが》きたてられた床で足を滑らせ、ケランベランは幾度もよろめいた。その度に、屈強な兵士の腕が両側からのびて、彼を荒々しく引き起こすのだった。  進むにしたがって、闇はますます濃密なものとなった。  しかし、ケランベランを連行する兵士たちの足取りにとどこおりは見られない。  彼等にとって、ここは歩きなれた通路なのに違いなかった。  そして、その行き着く場所で行なわれるのは、処刑以外にあり得ない。そうとしか思えなかった。  すでに覚悟はできているつもりでも、やはりケランベランの足はすくんだ。  しかし、そんな彼を、兵士たちの固いこぶしが容赦《ようしや》なく追い立てた。  と、背後から、乱れた足音とともに、松明《たいまつ》をかざした臣下の一団が追いついてきた。  その炎で、やっと石の回廊全体がぼんやりと浮かび上がった。  そして、光がようやく届くあたり、そこを雷王がひとり、先頭に立って進んでいた。  王の緋色《ひいろ》のマントが、まるで疾駆《しつく》する獣のたてがみのように躍《おど》り、波打って見えた。  あわただしくゆらめく数本の松明が、ケランベランたちのかたわらを駆け抜けた。  彼等は、王の足元を照らすべく、その明かりを息を切らしながら運んでゆく。  しかし、雷王は、歩度を緩めることも振り返ることもせずに先を急いでいた。  ほとんど駆けているような勢いだ。  それが、ケランベランの不敬に対する怒りの強さをあらわすものだと誰《だれ》もが思った。  嵐《あらし》のような行進は、なおも続いた。石の廊下は、ひたすら一直線に、王城の中心部へとのびている。  口を開こうとする者はなかった。  彼等は、ただ、王の怒りがすみやかに静まることだけを念じつつ、小走りにその道を辿《たど》り続ける以外なかった。  避け得ない死を行く手にひかえたケランベランにとって、それは余りにも長く、また酷《むご》い旅だった。  恐怖とないまぜになった後悔が、どす黒く彼の胸をふさぐ。そのことが、ケランベランはたまらなかった。  いっそのこと、馬鹿《ばか》げた反逆を試みたあの宴の席で、即座に罰を受けてしまいたかった。そうであったなら、彼は少なくとも、ある種の満足と高揚の最中で死ぬことができたに違いない。  だが、今となっては、すでに遅い。  暗い回廊をいつまでも引き立てられてゆく内、彼の心は、完全におじけづいてしまっていた。  その果てにやってくる死は、恐らく、ひどくみじめなものとなることだろう。  あるいは、それが雷王の意図であるのかもしれない、とケランベランは縮み上がった心の片隅《かたすみ》で思った。  こうして城内を引き回し、少年鼓手に、その犯した罪の重さを自覚させる時間を与えようとしているのかも……ケランベランは、今にもその場にひれ伏し、大声で泣きわめきながら許しを乞《こ》いたい誘惑に駆られた。  だが、それを最後のところで思いとどまらせているのは、彼の師シグビルゴに対するどうしようもない嫌悪《けんお》感だった。  せめて、シグビルゴのただれた欲望だけははねのけて死ねる……その思いが、ケランベランにとって唯一《ゆいいつ》の、しかし最も大きな救いだった。  彼はくじけそうになる心を、シグビルゴの気味悪い掌《てのひら》の感触を思い出すことで奮い立たせた。  そして、よろめきながらも、必死で顔を正面にもたげ、一歩一歩を踏みしめるようにして進んでいった。  と、ついに、さしもの長い廊下にも行き止まりが見えてきた。  行く手に、黒々と、巨大な木製の扉《とびら》が立ちはだかっている。  人々の間から、声にならないざわめきが湧《わ》き起こった。  雷王の緋色《ひいろ》のマントが、動きをとめたのだ。  兵士の一人が、なおも前進しようとするケランベランの首筋をぐいと掴《つか》んだ。そして一行は、雷王の背後で列をつくり停止した。  一瞬の、短い静寂があった。  誰《だれ》かが、大きな音をたてて生つばを呑《の》み込んだ。  その時——  唐突《とうとつ》に、雷王の声があたりに響きわたった。 「さあ、その少年を残して、皆退《さが》ってよいぞ」  再び、ざわめきが走り抜けた。  松明《たいまつ》をかざす数人の臣下が、あわてたように雷王のかたわらににじり寄った。 「どうなさるおつもりです? このような、つまらぬ若僧《わかぞう》を、ご自分でお手にかけるには及びませぬ。わたくしどもにおまかせ下さればよろしいものを」  その一人が言った。 「退ってよい、と申しておるのだ」  雷王は、断固たる口調で言った。しかし、その声の奥には、どこか疲れたような響きが感じられた。 「その少年には、少し訊《き》いてみたいことがある。その上で、処置を考える」  臣下に背を向けたまま、王は再び口を開いた。 「し、しかし……そやつは、祝いの席で、とんでもない無礼を働いた不届き者。いかに子供とは言え、二人きりでは危険でございます。せめて、警護の人間だけでも——」  なおも言いつのろうとする一人を、雷王は、聖なる杖《つえ》のひと振りで制止した。 「退れ!」 「しかし、また、なぜ、そのような少年に用がおありなのです?」  王の身を案じて、彼はなおも食い下がった。 「おまえ、王たるわたしの心を推《お》し計《はか》ろうとするのか?」  雷王が厳しい声で問い返した。 「そ、そのようなことは……」 「では、退《さが》るがよい。そして、わたしが呼ぶまで、誰《だれ》もこの回廊に立ち入ることは許さぬ。分かったか」  王は言った。  そして、ついと腕をのばし、かたわらに立つ一人の兵士から、松明《たいまつ》を奪った。 「さあ、もう、用はない。それに、ここがどのような場所か、おまえたちは知っているはずだ。すぐに、ここから立ち去るのだ」  言いながら、雷王は振り向いた。  自らがかざす松明の炎が、王の顔面をまだらな朱色に染めていた。  にもかかわらず、実はそこに血の気が失《う》せているらしいことを、ケランベランは咄嗟《とつさ》に見てとった。  どこかが異常だった。  いや、すべてが異常だった。 (いったい……王は、自分から何を訊《き》き出そうというのだろう?)  ケランベランの胸中に、死の恐怖よりも奥深い疑惑が芽ばえはじめた。 (いったい……何がこれから起きようとしているのか……ここは、いったい、どのような場所なのだ……まさか……)  雷王が、唇《くちびる》を噛《か》みしめているのが分かった。  そして、金属杖《きんぞくじよう》が打ち振られた。  王のただならぬ気配を察してか、もはや、口を差しはさもうとする者はいなかった。  一行は、気配を押し殺し、頭をたれたまま、潮が退《ひ》くように石の回廊を引き返してゆく。  後には、ケランベランと雷王が残された。  明りは、王がかざす松明一本だけである。  しかし、それも、この二人を包む濃密な闇《やみ》を押しかえすには余りにささやかなものと言えた。  ケランベランは震えだした。それは、どうしようもない激しさで続いた。  彼は待った。  ただ石の床をじっと見つめて待った。  たが、王は、いつまでたってもひと言も口をきかない。  苦しい時間が、闇の底に降りつもってゆく。それでもケランベランは耐えた。  脈打つ自分の心臓の音が、異様な轟《とどろ》きとなって彼の鼓膜を震わせていた。ケランベランは、それに聞き入った。  それ以外、彼に出来ることは何もなかった。そして、さらに耐えた。  さらに……  だがやはり、いつ自分を見舞うかも知れぬ死に対して身構え続けることは、少年の彼にとって、本物の死を思う以上に苦痛だった。  次第に、彼の神経は、緊張の重圧にたわみ、軋《きし》み、悲鳴を上げはじめていた。  ついに、彼は顔を上げた。  そして、叫び出そうとした。  わめき、吼《ほ》え、大声で泣き出そうとした。  だが、そのつもりで思いきり開かれた彼の眼《まなこ》と唇《くちびる》は、そのまま凍りついた。  頭を上げ、そこで彼が対面したのは、全く思いもかけぬ雷王の表情だったのだ。  王は……じっと彼を見下ろしていた。ケランベランを、見つめていた。  そして、王の瞳《ひとみ》の奥には、見誤りようのない情愛の色が浮かんでいたのだ。 (…………!)  ケランベランは呻《うめ》いた。  すさまじい混乱が、彼の内部で渦巻《うずま》いた。  と、いきなり雷王は、くるりとケランベランに背を向けた。  そして、一歩前に進み、石の回廊をそこで閉ざしている巨大な木製の扉《とびら》に手をかけた。  扉は、その見かけにふさわしい重々しい音を立てて反対側に開いていった。  王はなおも無言のまま、片手に持った松明《たいまつ》を、扉の内側に差し入れた。  光が、そこに流れ込み、ゆらめいた。  部屋があった。  ケランベランは、そのおぼろな明かりに照らし出された室内の様子に目を見張った。  決して華美《かび》ではない。だが、そこにしつらえられている調度類は、彼がこれまで王宮内で目にしたどんな場所のものよりも、まだ数段の豪華《ごうか》さを感じさせた。 (王の……雷王の居室だ!)  ケランベランは直感した。  王が決して誰《だれ》も寄せつけぬ、自分だけの密室を持っているという噂《うわさ》を、彼は耳にしたことがあった。それは、王城の、最も奥まった一角に隠されていると言われていた。 (それが、ここなのか! しかし、なぜ……)  ケランベランは目を見開いたまま大きく喘《あえ》いだ。 (……ここへ俺《おれ》を引き入れて、王は何を話そうというのだろう……何をしようというのだ……) 「ケランベラン……それとも、カルファと呼んで欲しいかね?」扉《とびら》をくぐって室内に入った雷王が、静かな声で呼びかけてきた。「さあ、いつまでそこに突っ立っているつもりだ。こっちへ来なさい」  その口調は、聞き誤りようのない優しさを帯びていた。  これまでの王のふるまいからは、到底信じられない声だ。  ケランベランは、そのことを疑い、畏《おそ》れた。  しかし、王の言葉にここでそむく理由はなかった。  ケランベランは、夢の中の人物のような足取りで、ふらふらと扉のすき間をくぐり抜けようとした。  王は、松明《たいまつ》を壁の一角に差し込み、こちらに振り向いたところだ。  と、その時、唐突《とうとつ》に、とんでもない事実にケランベランは思いあたった。  雷王は、彼を�カルファ�と呼んだのではなかったか——? (そんなはずは……王が、俺《おれ》の幼名を知っているわけがない!)  ケランベランは、本物のめまいに襲われた。 �カルファ�という呼び名を知っているのは、この王宮内では、彼を最初に引き取ったシグビルゴ以外にいないはずだった。その彼にしたところで、今ではもう、そんな呼び名がかつてあったことすら忘れ果てていることだろう。 (では……なぜ?)  今夜はじめて目にとめた少年の、その幼い頃《ころ》の呼び名を、雷王が知っているのか。  ケランベランには、もう何もかもが分からなくなってしまった。  彼はまた、喉《のど》の奥で呻《うめ》き声をたてた。  と、その彼の足に、部屋の床一面に敷きつめてある獣皮の長い毛足がからみついてきた。  彼は思わず前のめりになり、そのままひざをついて倒れ込んだ。  その頭上から、声が降ってきた。 「ああ……とうとう、やって来たのか……」  そして、次の瞬間、ケランベランのきゃしゃな肩は、大きな暖い手で包み込まれるように抱きかかえられていた。  彼のうなじに、雷王の息づかいが感じられた。  ケランベランの背すじを、痙攣《けいれん》に似た鋭い震えが走り抜けた。  しかし、彼はそのままの姿勢で身じろぎもできない。 「いつかは、この時が来ると知っていた……だが、あるいは……という気持ちも捨てられなかった。ここが……裏の世界なのか、表の世界なのか……あるいは、別の時間が流れているのではないか……そんな風にも思ってみた。さもなくば、自分の力で、と……しかし……」  彼の肩を抱いたまま、雷王はわけの分からないひとり言を洩《も》らし続けている。 「……そう……わたしは愚かだった……すでに在った運命を、自分の力で変えられるかもしれぬ、などと本気で考え続けていたのだからな……この巨大な、迷路のような城塞《じようさい》は、そんなわたしの怖れがつむぎ出した妄想《もうそう》の形骸《けいがい》と言えるかもしれない……わたしは怖れていた……わたし自身を……つまり、おまえを……」  雷王の指先に力がこめられた。  ケランベランには、王の言葉が片鱗《へんりん》たりとも理解できなかった。 (雷王が、何を怖れる?……�わたし自身を……つまり、おまえを�とは、どういう意味だ?……王は、俺《おれ》に、何をするつもりなんだ?)  数限りない疑惑が、ケランベランの胸の中で、次第に凝縮《ぎようしゆく》していった。それはやがて、激情の発作を生まずにはいないだろう。  だが、なおも雷王は語り続ける。 「……ああ……運命の輪は、ついにわたしを捉《とら》えて離さなかった……だが、おまえはどうなのだ、カルファよ? おまえなら、あるいは……」  雷王の両手が、じわじわとケランベランの胸の方に回ってきた。  もう彼は、王の腕の中に、完全に抱きすくめられていた。 「……ああ……わが息子《むすこ》よ……」  だが、すでにその時、ケランベランは王の言葉を聞いていなかった。  彼の身体を這《は》い回る王の指先、そして吹きかけられるその息づかいが、ケランベランに、あのシグビルゴが彼に仕掛けようとしたみだらな悪夢を想い起こさせてしまっていたのだ。  もう、一瞬たりとも、彼には我慢ができなかった。  すさまじい嫌悪《けんお》の情が、彼の内部を突き抜けた。全身が硬直した。  背後の雷王の気配が、シグビルゴに対するいまわしい記憶と重なった。  ケランベランは、追いつめられた草食獣のように、狂気を秘めた目をぎらつかせて、逃げ道を捜した。  と、自分のわき腹に押しつけられている固い棒状のものが目に入った。 (剣だ! 短剣だ!)  それは雷王が腰に吊《つ》っていた儀礼用の美しい剣の柄《つか》だった。  ケランベランは、いきなりそれに手をのばした。  一気に剣を抜き放ち、そのままの姿勢で、雷王の腹にそれを突き立てた。  彼には、自分のしていることの意味など、まるで分かってはいなかった。  ただ、おぼれかかった者が空気を求めて水中であがく、それと同じ本能のままに、剣を奪い、そして突き出したのだった。 「おう……」  雷王は小さく吼《ほ》えた。  だが、ケランベランを抱きすくめている両腕の力は変わらない。  ケランベランは焦った。  彼は再び剣を握ると、渾身《こんしん》の力をふり絞ってそれを引き抜き、また突き刺した。 「……うぐ……」  王の身体《からだ》がぐらりとのけぞった。  ようやく、片方の腕が、ケランベランから離れた。  その隙《すき》に、彼は素早く這《は》って、王の手の届かぬ場所まで逃れた。  そして、振り向く。 「う……む……」  雷王が、押し殺したような唸《うな》り声を上げた。  だが、その目に、不思議と怒りや敵意は全く浮かんでいない。  むしろ静かすぎる表情で、王はケランベランを見つめていた。  それがかえって、彼をおびえさせた。 「わっ! わーっ!」  ケランベランはわめいた。ようやく、自分のしてしまったことに気付いたのだ。  彼は血にまみれた両手を振り回し、その拍子に、あおむけに倒れた。 「お、おおおおお……」  ケランベランは、さらに叫び立てようとした。  だが、そんな彼を、雷王の鋭い声が制止した。 「静まれ、カルファ! 騒ぎ立てれば、衛兵が飛んでくるぞ!」  思いもかけない言葉だった。  ケランベランは、一瞬、呆気《あつけ》にとられて沈黙した。 「よし、それで、よし……」  雷王がつぶやいた。  そして、彼を見据《みす》えたまま、片手で腹部をおさえ、もう片方の手で握った雷杖《らいじよう》にすがって、ゆっくり立ち上がろうとした。  が、その途中で、王は力つきた。  聖なる杖《つえ》を放り出すようにして、雷王はどうと前に倒れた。  その身体《からだ》から流れ出す大量の血が、見る見る床の敷き物を濡《ぬ》らした。  ケランベランは、身動きする気力も失せて、ただ、その様子を見つめていた。 「逃げろ、逃げるんだ、カルファ!」  また、思いがけぬ言葉が、雷王の口から発せられた。 「な、なに?……」  ケランベランは、思わず床の上を後退《あとずさ》った。 「こ、この杖《つえ》をひろってゆけ……きっと、役に立つ……いいか、カルファ、よく聞くんだ……その握りの部分についている黒い突起を思いきり後に引く……そうしておいて、反対側の赤いボタンを押す……そうすれば、杖の先から、あ、あの……雷光がほとばしる……」  雷王の声が、ついに苦痛に負けはじめた。  呼吸も喘《あえ》ぎに変わっている。 「カ、カルファ……杖をとれ!……そして……逃げろ!」  ケランベランの脳髄は、すでに痺《しび》れきっていた。彼は、もう、いかなる判断もできない状態に追い込まれていた。  ケランベランは、雷王が命ずるままに、のろのろと立ち上がった。  そして、操り人形そのままのぎこちない動作で、床に落ちている雷杖《らいじよう》をひろい上げた。 「……行け! カルファ……さあ……」  雷王の首が、がくりと落ちた。  ケランベランは、ゆっくり目を閉じようとしている王の顔を、ぼんやりのぞき込んだ。  その時彼は、雷王の表情に、自分と非常に似通ったところがあるのを発見した。  どこがどうとはっきり言い表わすことはできない。だが、雷王は、明らかにケランベランとよく似た顔形の男だった。 「うっ……」  ケランベランは呻《うめ》いた。  そして、跳《と》びすさった。  両手にはしっかりと雷杖が握られていた。  ケランベランは扉《とびら》の間をすり抜け、そして駆け出した。  第八話 遊女サーザラ  つまずき、滑り、立ち上がってはまた転びしなから、ケランベランは走った。  天井の明かり採りから洩《も》れてくるわずかな星の光を頼りに、彼はその暗黒の回廊をひた走った。 (逃げるんだ……逃げられるんだ……)  彼はその言葉を、呪文《じゆもん》のように自分に言いきかせながら、闇《やみ》をかき分けた。  自分が王城のどこにいるのか見当もつかない。  ただ、今までいた場所が、あの伝説的な雷王の居所であるなら、そこが、この巨大な城塞《じようさい》の中心部にあたるはずだった。  つまり、そこから一直線に遠ざかれば遠ざかるほど、城の外周に近付いていることになる。  その先、どのようにして城壁を越えるのか、そこまでは考えない。  ともかくも今は、一歩でもいい、城の外界へと向かう方角に進みたかった。  彼は走った。闇雲《やみくも》に走り続けた。  いつしか、長い石の通路を抜け、曲がりくねった廊下が複雑に入り組む区画へ入り込んでいた。  と、前方に、ぽつりと明かりが見えてきた。  人の気配や、そのざわめきなどが、微《かす》かに伝わってくる。  どうやら、雷王の聖域は抜けたらしい。  ケランベランはいったん足を停《と》め、息を整えてから、今後は慎重に、足音を忍ばせて先を急いだ。  灯のともる場所や、人の気配に近付き過ぎた時は、より闇の濃い静かなわき道に逃れた。  そうやって、どのくらいの距離を進んできただろうか。  その時——  ゆるやかに右へ曲がる暗い斜路の途中で、突然、後から声が投げかけられた。 「誰《だれ》です? そこにいるのは……」  女だ。女の声だ。  ケランベランは咄嗟《とつさ》に身体を壁に押しつけ、自分の存在を打ち消そうとするかのように息をつめた。 「誰? メニアじゃないの? 駄目《だめ》よ、隠れているつもりかもしれないけれど、影が見えてるわよ。さあ、出ていらっしゃい、メニア」  女は、ケランベランをメニアとかいう人間と決めつけているらしい。  その声に、警戒の響きはない。  むしろ、遊戯を楽しむ明るさが感じられた。  それにかまわず逃げ出せば、すぐにも彼女は大声で衛兵を呼び集めることだろう。  かと言って女に顔を見せれば、どうなるか……ケランベランは迷った。  激しい迷いが、彼のふくらはぎの筋肉を痙攣《けいれん》させた。  一回、そしてもう一回、ケランベランは大きく深呼吸を繰り返した。そして意を決した。  彼は、ゆっくりと身体を壁から引きはがし、そして、振り向いた。 「まあ……メニアじゃない……誰《だれ》? 誰なの?」  女の声が、微《かす》かに尖《とが》った。  こうなっては仕方がない。ここで、彼女に騒がれてはどうしようもない。  ケランベランは、無言のまま、女のぼんやりとした影に向かって足を踏み出した。 「やめてちょうだい、あたしをおどかすつもり? 誰なの……どこの部屋の女?」  ケランベランの、まだ大人《おとな》になり切っていないしなやかな姿形を、彼女はすっかり女だと思い込んでいるようだ。  それならば、まだ隙《すき》を突ける。  一気に飛びついて、彼女を黙らせることもできそうだ。  ケランベランは、薄暗がりの中で、雷杖《らいじよう》をしっかりと握りしめ、そして身構えた。  と、その時、一瞬のまばゆさに彼の目はくらんだ。  女が、手に待った小さな器から火を発したのだと気付いた時、すでにその炎は、ケランベランと女の顔をはっきりと闇《やみ》の中に浮かび上がらせていた。 「……あなたは……」  女は細い眉《まゆ》をしかめ、わずかに首を傾《かし》げた。 「…………」  ケランベランは口をつぐんだまま、女をにらみつけた。  しばらくは、お互いの顔色をうかがいあう二人の対峙《たいじ》が続いた。  が、やがて、女の視線は、ケランベランが握る金属杖に落ちた。 「ま、まさか……それは、王の……」  どうやら、彼女はケランベランの顔を知ってはいないようだった。だが、その手の中にあるものから、ある変事を悟ったらしい。  もう猶予はなかった。  ケランベランは、その金属杖の先を、目にもとまらぬ早さで女の胸元へ振り向けた。 「いいか、ちょっとでも声を立ててみろ。その瞬間におまえは雷《いかずち》に打たれて死ぬ。そうだ! これは、いかにも王のしるし、聖なる杖《つえ》だ。そして、俺《おれ》は、この杖の力を自由に操る術を心得ている」  ケランベランは精一杯の虚勢をその声にこめて女を脅《おど》かそうとした。  言いながら、雷王が彼に教えた通り、黒い突起を思いきり引っ張り、そして赤いボタンに指をかけた。  女が彼の言葉に従わない時は、躊躇《ちゆうちよ》なくそれを押すつもりだ。  だが、その必要はなさそうだった。  女は、両の眼《まなこ》を驚愕《きようがく》の形に大きく見開きはしたものの、声は上げない。  王宮に住まう者なら誰《だれ》でも、雷杖《らいじよう》の伝説は知りつくしている。  だから彼女も、それを見た瞬間から、あらがいようのない呪術《じゆじゆつ》的な畏《おそ》れにとりつかれてしまったもののようだ。  女は、全身を硬直させたなり、(分かった)というように、こくりとうなずいた。 「よし……それなら——」ケランベランは、ちょっと考えてから言葉を継いだ。「すぐに自分の部屋へもどるんだ。そして朝まで、知らぬふりをしているがいい。ここで俺《おれ》と出会ったことは忘れてしまえ。いいか! さもないと、俺は、どんなに離れたところからでも、おまえを杖の雷《いかずち》で打ち倒す。この、地獄《じごく》の火で、おまえを灼《や》き殺す。いいな!」  そんなことが出来るものかどうか、ケランベランに分かりはしない。  だが、杖にまつわる極端に誇張された言い伝えは、彼の言葉を、女に信じさせるに充分だった。  女が軽く身震いしたように見えた。  彼女がまとっている床まで届くゆったりとした寛衣《かんい》が、かすかな衣《きぬ》ずれの音とともに揺れた。  女は再び、小さくうなずいた。  そして、掌《てのひら》にのせた器の蓋《ふた》を静かに閉じ、そこで燃えていた炎を消した。  あたりにまた、闇《やみ》が落ちた。  斜路の先の庭園からわずかに洩《も》れてくる薄明かりだけが、二人を黒いシルエットに変えて浮かび上がらせていた。 「さあ、行くんだ!」  ケランベランは言って、自分も身をひるがえし、駆け出そうとした。  その時である。 「サーザラ……そんなところで、何をしているの? 早く、いらっしゃいな。もう、札合わせの仲間は集まっているわ」  またもや、女の声だ。  どうやら、彼女たちは、これからの夜長を遊び明かそうと集まってきたところらしい。  サーザラと呼ばれた女が、喉《のど》の奥で「ひっ」と小さな悲鳴を洩《も》らした。 「メ、メニアなのね? え、ええ……これから、あなたの部屋へ行くつもりだったんだけど……」  女は、震える声でともかくも答えた。 「どうしたの、サーザラ。そこに、誰《だれ》かいるの?」  メニアという名の女は、なおも声をかけてくる。闇の中をうかがっている様子だ。 「いえ、あたし一人《ひとり》よ。それよりも、メニア……」  言いながら、サーザラが動いた。 (…………!)  ケランベランは緊張した。  だが、衣を大きくひるがえしたサーザラは、逃げ出そうとするのではなく、逆に、ケランベランが身体を貼《は》りつけている壁際に寄ってきたのだ。  そして、ひろげた寛衣《かんい》の中に、彼を隠そうとしたのである。 (うっ!)  身動きするひまもなく、ケランベランは、女の衣の中に包み込まれてしまった。 「まあ、サーザラ。やはり、誰《だれ》かそこにいるのね?」  メニアが笑いを含んだ声で言った。 「メニア、あたしは一人よ、ほんとうに……」サーザラが答えた。「そうじゃなくて、あたし、今夜はどうしても気分がすぐれないの。だから、遊びはあきらめて、部屋へ帰って寝るつもり……それを、伝えに来たの」 「気分が、悪いですって?」メニアは、陽気な調子を崩さず、からかい気味に言った。 「まあ、いいでしょう。今夜は許してあげる。みんなには、そう伝えてあげるわ。その……そこには、いないはずの方に、せいぜい、気分をよくしてもらってちょうだい」  メニアが、意味あり気な笑い声をたてた。 「そ、そうなのよ、メニア。だから、今夜は、誰《だれ》も、あたしの部屋には近付けないで、お願い……」  衣の中に隠したケランベランを、強く抱き寄せるようにしながら、サーザラが言った。 「もちろんよ、サーザラ。じゃあ、楽しい夜を、ね……」  女の足音が遠ざかってゆく。  ケランベランは、それまでこらえていた息をようやく吐き出し、そして大きく吸った。  と、思わず、めまいを覚えた。  彼の鼻孔を通って肺に流れ込んだのは、他でもない、成熟した女の、余りにも誘惑的な匂《にお》いだったのだ。  ケランベランは、突然、もがきはじめた。  とにかく、その衣の下から脱け出ようとした。 「静かに!」  言ったのは、サーザラだ。 「あたしたちは、ここで密会した恋人どうしなのよ。少なくとも、メニアはそう思っているわ。だから、お願い、静かにするのよ。このまま、あたしの部屋までいらっしゃい。誰かに見られても、心配はいらない。こうしていれば、見て見ぬふりをしてもらえる……」  早口で言って、サーザラは歩き出した。  激しく動揺しながらも、ケランベランは女の言葉に従った。  ついさっきまでとは、完全に立場が逆になってしまった。  女の衣に守られたケランベランは、ただ彼女の足取りのままに、よろめきながら通路を進んだ。  息を吸えば、いやでもサーザラの匂《にお》いを嗅《か》ぐことになる。  それは、彼に不思議なうずきと発熱をもたらした。  彼の顔面は、真っ赤に染まっているに違いなかった。だが、闇《やみ》が、彼をその屈辱感から救ってくれていた。  女は、二度、角を曲がり、とある突き当たりまで来て、そこにある小さな戸を押した。 「さあ、中に入りなさい。だいじょうぶよ、ここは、あたし一人の部屋。もう今夜は、誰《だれ》もやってこないはず……」  サーザラは、ケランベランを押し込むようにして部屋へ入れ、戸をすぐ閉めると中側からかんぬきを下ろした。  そして、それを背に振り返った。  部屋の中には、寝台と大きな鏡があるだけだった。  床には厚い織り物が敷いてある。  その上に、果物を盛った籠《かご》と、酒を注《つ》ぐ、把手《とつて》のついた器が置かれていた。  それらを、壁際で燃える燭台《しよくだい》の火が、ちろちろと照らしていた。  そこは、いかにも、彼女の居室であるらしかった。  しばらくの沈黙のあと、やっとケランベランは口を開いた。 「ど、どういうつもりだ……」  だが、その声に力はない。  ケランベランは、その時、一人のただ途方に暮れた少年に還《かえ》っていた。 「あなた、楽士なのね?」  ケランベランの質問には答えず、女が訊《き》いた。  彼の黒地に金の刺繍《ししゆう》がある衣裳《いしよう》に、ようやく気付いたらしい。 「…………」  ケランベランは、どう応じてよいか分からず、唇《くちびる》を噛《か》んだ。 「……そう……」  女は、急に何かを思い出したようだ。眉《まゆ》を寄せ、ケランベランをじっと見つめた。 「……あなた、なのね……今日の宴で、不始末をしたとかいう、少年鼓手は……」 「知っているのか!?」  ケランベランは、うろたえ、しわがれ声をしぼり出した。 「今夜、あたしは、宴に遅れて行ったの。そうしたら、もう、大騒ぎになっていたわ。雷王は、その少年を連れて、お下がりになった後だと聞いて……」  サーザラは、また何かに、はっと思い当たったらしい。  言葉を切って、瞬《またた》きした。 「……あなた、逃げてきたのね。そうなのね?」 「だとしたら?」  ケランベランの瞳《ひとみ》が、暗い光を放った。 「さあ……」  女は、ちょっと考え込む風に首をかしげた。 「……いえ、あたしには関わりのないことだわ。そうでしょう? だって、今夜、あたしは、あなたに会いもしなかったし、その姿を見かけもしなかったんですもの……そうよ……あたしは、ただ、恋人と一夜を過ごすだけ……外で何が起こっていようと、あたしは、知らぬこと……」  女の言葉は、次第につぶやきに変わった。 「心配しないで……今夜一晩、あなたをかくまってあげる……そして、日が出たら、きっと逃がしてあげるわ……いいでしょう? だから、それまで、あなたは、あたしの部屋へ忍んできた、あたしの恋人……」  言いながら、女は、ゆっくりとケランベランに手を差しのべた。  だが、ケランベランは後退《あとずさ》りながら、激しく首を左右に振った。 「俺《おれ》は逃げなくちゃならない。今、すぐに逃げなくちゃならない。俺は、俺は、大変なことをしでかしてしまったんだ……すぐに、この城から脱《ぬ》け出したい、脱け出さなくちゃならないんだ!」  まるで泣き出しそうな早口で彼は言った。  少年期をようやく脱けようかという年頃《としごろ》である。しかも、これまで、シグビルゴの許《もと》で女たちとは隔離されて暮らしてきたケランベランにとって、今、目の前にいるサーザラのような存在は、一種異世界の生き物のように感じられた。  彼は、彼女が発散している未知の雰囲気《ふんいき》を、本気で怖れはじめてもいた。  相手が、平凡な女であれば、ケランベランも、これほどまでにおじけづくことはなかったろう。  だが、異性に対して、それほど関心を持ってもいないケランベランから見ても、サーザラは、とびきりの、女、そのものだったのだ。 「だめよ、今夜は、だめ……」  サーザラの声の調子が変わった。 「……それに、暗い内は、どんなに運がよくても、この迷路のような城の中を抜けることはできないわ。逃げるなら、日がのぼってから……太陽を目印に、方角を見定めて……だいじょうぶ、朝になれば、あたしが、きっと、道順を教えてあげられるわ。それに、あたしたちが、いつもこっそりと町へ出る時に通る城壁の抜け道も……だから、それまでは……」  いつの間にか、ケランベランの腕をとり、敷き物の上に彼を座らせたサーザラが、耳元でささやき続ける。 「……いいわね……そう、あたしの言うことをきいてちょうだい……わかったわね……ああ……あなたは、なんて、なんて……」  サーザラの片手が、ケランベランの膝《ひざ》にのびた。そして、優しく、微妙に動きはじめた。  その感触は、ケランベランに、また、あのシグビルゴのことを想い出させた。  しかし、なぜか、サーザラの掌《て》は、彼にとって耐えがたいものではなかった。  いや、それどころか、彼は自分の奥深くから、自分ではどうしようもない熱い血がこみ上げてくるのを感じていた。  それに対する大いなるとまどいと、小さな怒りがあった。  だがそれらは、やがて血の脈動の中に消えていった。  サーザラの腕がゆるゆるとのびて、ケランベランを抱き、床に横たえた。  ケランベランは、自分で自分をどう扱ってよいのか分からず、ただ仕方なく、されるままになりながら目を閉じた。  と、その彼の唇《くちびる》に、熱く濡《ぬ》れたものが押しつけられてきた。  ケランベランは無意識の内に、それを吸った。甘い痺《しび》れが、全身にひろがった。  そして、その夜、ケランベランは、男と女のことを知った。  第九話 迷宮脱出  裸の背中を冷気に撫《な》ぜられて、ケランベランはぞくりと身震いし、その拍子に目を開いた。  天井に近い明り採りの外が、うっすらと白んでいる。  夜が明けはじめているのだ。  ケランベランは、身体からずり落ちかけている薄い上掛けをはねのけ、いきなり寝台から跳《と》び下りた。 「……なに?……どうしたの」  彼のかたわらで眠りこけていたサーザラが気配に気付いて身じろぎし、つぶやきかけてきた。 「朝だ。俺《おれ》は行く」  ケランベランは、ぶっきらぼうにそう答えた。 「…………」  サーザラは無言のまま、ゆっくりと上半身を起こして彼を見上げた。  上掛けがめくれて、彼女の豊かな胸が露《あら》わになった。  ケランベランはそれに目を落とし、すぐうろたえ気味に視線をはずした。  彼もまた、サーザラと同じく、一糸まとわぬ裸のまま寝込んでいたのだ。  嵐《あらし》のような一夜の記憶が、否応《いやおう》なく思い出された。  彼はそれを振り払うように首を強く振り、忙しくあたりを見回して自分の衣服を探した。 「待って、ベラン……」  彼の挙動の意味を悟ったサーザラが、小声でささやいた。 「だめよ。あの楽士の服装じゃ、いくらなんでも、この王宮から抜け出すことはできないわ。すぐ、警備兵に見とがめられてしまう……」  サーザラは言いながら上掛けを身体《からだ》に巻きつけ、寝台から足を下ろした。  彼女の艶然《えんぜん》たる所作を目にして、ケランベランは不覚にも、押さえがたい新たな欲望が頭をもたげそうになるのを感じた。  だが、刻々と明るさを増す窓外の朝の光が、かろうじて彼を押しとどめた。  ケランベランはぎこちなく二、三歩動いてサーザラに背を向けた。そして顔だけを彼女に振り向けると、口を開いた。 「で、でも……じゃあ、俺《おれ》は何を着ればいいんだ? 俺の衣類は、みな、楽士の寝所に置いてきてしまっている」  ケランベランは、頼りなげに訊《き》いた。 「だいじょうぶよ、ベラン。ちゃんと、そのことは考えてあるわ」  いつの間にか、彼のすぐ後に近付いてきたサーザラが、両手を彼の肩にかけてささやいた。  甘い息が、彼のうなじに優しくかかる。 「……それにしても、ベラン……あなたを遠くにやってしまいたくはない……いつまでも、あたしの虜《とりこ》にしていたい……ベラン……ああ、なんて美しい獣……」  彼女のひと言ひと言が、ケランベランの心を揺り動かした。  できるものなら、彼とても、この女との時間の中に溺《おぼ》れていたかった。そうやって、日々が送れるものなら……そんな夢想が、彼の頭をしびれさせた。  しかし、この城のあるじ、雷王をあやめた彼に、それが許されるはずもない。  生きることを望むなら、ただ逃げることだけが、唯一《ゆいいつ》、彼の道なのだ。  ケランベランは、きっぱりと首を横に振った。 「俺は行く。今、すぐに……でも、あなたのことは、一生、忘れはしない」 「え、ええ……そうね」  サーザラの手が、名残《なご》りおしそうに、ケランベランの肩から離れた。  と、彼女は大またで、壁際に進んだ。  そして、そこにある木の引戸を開いた。  その後は、衣裳戸棚《いしようとだな》になっている。 「さあ、ベラン……」振り向いたサーザラが彼を手招きして言った。「この中から、あなたに合う着物を見つけてちょうだい」 「でも……そこにあるのは、みな、あなたの衣裳……」  戸棚の中のきらびやかな色彩に思わず目をしばたたき、ケランベランはつぶやいた。 「そうよ。どれも、女がまとう衣裳ばかり。あなたは、これを着て、女の振りをして王宮から逃げるのよ。案内はあたしにまかせて、さあ、急いで」  サーザラは幾枚かの衣をケランベランに差し出した。  女の衣を身につけることには、やはり若干の抵抗があった。  だが、サーザラが言う通り、確かに楽士の服装では余りにも目立ち過ぎる。  仕方なく、ケランベランは、彼女の手からゆるやかな寛衣《かんい》を受け取り、それを頭からかぶった。  そして、顔もすっぽり隠れる頭巾《ずきん》のついたマントを肩からまとう。  成熟したサーザラの体格にちょうどよい衣類だから、どれも、ケランベランには少し大きい。  だが、帯の位置で調節すると、なんとか格好はついた。 「美しいわ。ベラン……ほんとうに……」  一歩離れて、彼の姿を確かめたサーザラが、そう言ってため息をつく。  頭巾の下で、ケランベランは頬《ほお》を赤らめた。  生まれてはじめて女の衣裳《いしよう》で身を包んだ恥ずかしさもあった。しかし、それ以上に、衣にしみついているサーザラの香りが、彼の血をうずかせるのだった。 「そう……いつまでもこうしてはいられない。あたしは、あなたとの約束を果たさなくちゃならない……」  サーザラは、ちょっと辛《つら》そうに言葉を切ると、彼を見つめたまま、こくりとうなずいた。 「じゃあ、行きましょう。あなたは黙って、あたしの後をついてくるだけでいい。もし誰《だれ》かと出会っても、声を出しちゃだめ。あたしが、うまくごまかしてあげるから……」  サーザラが唇《くちびる》の端に微《かす》かな笑みを浮かべた。  ケランベランは逆に口元を引きしめる。  そして、寝台のわきに横たえてあった雷杖《らいじよう》をひろい上げようと腰をかがめた。 「あっ、いけないわ、ベラン——そんなものを持って出ちゃ!」  サーザラが慌《あわ》ててとめた。 「でも、これがなくては、俺《おれ》は自分の身が守れない。それに、王の杖《つえ》をここに置いていけば、あなたにどんな疑いがかけられるかもしれない。俺は、もし万が一、途中で捕らえられたりしたら、この杖であなたを脅《おど》していたと言うつもりなんだ」  両手で雷杖をかかえ、ケランベランは言い返した。 「まあ、ベラン……あなた、あたしのことを心配してくれているのね。でも、その杖はマントの下に隠すには大きすぎる。どうしたって、人の目についてしまうわ。たいじょうぶよ、雷杖は、あたしがなんとかする。だから、とりあえず寝台の下にでも押し込んでおいて。それでも、あなたが、どうしても心細いのなら、そう……これを持っておいきなさい」  サーザラは言って、また衣裳戸棚《いしようとだな》に近付いた。そして、その奥を手探りして、何かを掴《つか》み出してきた。 「さあ、これよ。これを、あなたにあげる」  サーザラが差し出したのは、ひと振りの短剣だった。  柄《つか》や鞘《さや》の部分に宝石を埋め込んだ浮き彫りのある優雅な得物だ。しかし、細身の刃はなかなかに鋭い光を放っている。  ケランベランは、雷杖《らいじよう》と短剣を見比べながら、それでも迷った。  が、結局はサーザラの言葉に従い、雷杖を寝台の下に隠すと、短剣を受け取り、それを寛衣《かんい》の袖《そで》の中にしまった。  と、いきなり、サーザラが彼に抱きついてきた。 「昨夜は、とても素晴らしかった。夜明けをこんなにうらんだのは、はじめてのこと……でも、お別れね。どこまでも、どこまでも逃げてちょうだい、ベラン……」  熱い頬《ほお》を押しつけて、サーザラがささやいた。  ケランベランはただ無言で、その抱擁《ほうよう》を受けとめた。  サーザラの腕が、ゆっくりとケランベランの身体《からだ》から離れた。  そして彼女はくるりと彼に背を向け、部屋の扉《とびら》を開くと、先に立って廊下へと出た。  ケランベランはその後に続いた。  朝もまだ早い時間だから、あたりは静まり返っている。ただ、ところどころに設けられている中庭から、小鳥のさえずりが微《かす》かに聞こえてくるばかりだ。  サーザラは、迷路のように入り組んだ廊下を右に左に折れながら、足早に先へと進んでゆく。  その足取りにためらいは感じられない。  広間をいくつか横切り、また狭い通路が交錯《こうさく》する一画に入った。  廊下の両側には、粗末な扉が等間隔で並んでいる。  どうやら、召使いたちが寝起きしている場所らしい。  二人は足音を忍ばせ、その暗い通路を抜けていった。  その頃《ころ》になってようやく、あちこちから、目覚めだした人々のざわめきが伝わってくるようになった。  だが幸い、通路に人影はない。  それでもサーザラの足取りはさらに早まった。 「さあ、こっちよ」  彼女が指差したのは、小さなくぐり戸だ。  身をかがめてそこを通ると、石柱の並ぶ明るい回廊に出た。  さらにその先には、大きな庭園が広がっている。  回廊はまっすぐにのびて、そこを横切る渡り廊下につながっていた。 「ベラン、あれを越えると、西の城門までは、もうわずか。そしてその近くに、あたしたちが街へ息抜きに出掛ける時に使う抜け道があるのよ」  いったん立ち止まって、ケランベランの耳に口を寄せたサーザラがささやいた。  と、その時、渡り廊下の端に、短槍《たんそう》をかかえた三人の兵士が、唐突《とうとつ》に現われた。  巡回中の邏卒《らそつ》ででもあろうか、彼等もまたサーザラとケランベランの二人連れに目をとめたようだ。  大またで、こちらへ渡ってこようとする。 「心配しないで……知らぬふりをしてやり過ごすのよ」  サーザラはやや緊張した声でそう言い、背後にケランベランをかばうようにして歩き出した。  渡り廊下の、ちょうど中間のあたりで、一行はすれ違った。 「これは、これは、お美しい方々。こんなに朝早くから、どちらへお出掛けかな?」  年かさの一人が、からかい気味に声をかけてきた。  だがサーザラは冷たい表情で彼等を一瞥《いちべつ》したなり、一言も答えずに行き過ぎる。 「けっ、お高くとまりやがって。大方、街にいるこれにでも会いに行くんだぜ」  二人の背後で、若い兵士の一人が聞こえよがしの悪態をついた。  だが、それきりで、彼等は反対の方向に去っていった。  サーザラが、ほっと息を吐いたのがケランベランには分かった。  二人は庭園を渡り切った。  そこで、回廊を右に折れる。  進む内に、石の柱に背をもたせかけて何事かしきりに議論しあっている官吏の一団と出会ったが、彼等は、そばを通り抜ける二人に関心を示そうとはしなかった。 「ベラン……あの、左側に見える小部屋、あの中に、街へ抜ける通路の入り口があるのよ。もう、だいじょうぶ」  ちょっと歩調をゆるめたサーザラが早口で言った。  ちょうど、その時——  突然、回廊の端の方で、荒々しい何十人もの足音が湧《わ》き起こった。  それが、二人のいる方角目指して駆け寄ってくる。 「あっ!」  サーザラが息を呑《の》んだ。  頭巾《ずきん》の下に隠されたケランベランの頬《ほお》も固くこわばった。  二人は咄嗟《とつさ》に壁に貼《は》りついた。  と、その前を、血相を変えた兵士と臣下の一団が突風のように駆け抜けてゆく。 「どうした!? 何があった?」  先程の官吏たちが、驚き慌《あわ》てて彼等に道を譲りながら叫び立てた。 「王が! 雷王が!」 「雷王が、何者かに……」  二人の耳に、そんな叫び交わす声が切れ切れに届いた。 「ベラン……やはり、あなた……」  振り向いたサーザラの顔は、紙のように白い。 「…………」  ケランベランは、袖《そで》の中に隠した短剣の柄《つか》を握りしめ、サーザラの目を見返した。 「いえ、いいわ……あたしは、何も訊《き》かない。それより、急ぐのよ!」  衣の裾《すそ》をひるがえして、サーザラはその小部屋の扉《とびら》を押した。  手をのばして、ケランベランを引き込む。  そこは、がらんとした殺風景な部屋だった。  窓ひとつない。  ただ、一方の壁に暖炉のような形にレンガを積み上げた空洞《くうどう》がある。  よく見ると、そこから、下に降りる石段が続いている。 「ベラン……そこをくぐって逃げるのよ。穴の先は、城壁の外に通じているわ。どうやら、もう、あなたを見送っている時間もなさそう……あたしはすぐに部屋へとってかえして、あの杖《つえ》や、あなたの衣服を始末しなくては……いえ、いいのよ。あなたは、素晴らしい一夜で、退屈の余り腐りかけていたあたしの心を救ってくれた。これから、どんなことが起ころうと、あたしにとっては、どうでもいいの……どうせ、あたしは、王宮の中でしか生きられない女。でも、あなたは違うわ、ベラン。あなたには、もっともっと広い世界が似合っている……そんな気がする……さあ、逃げて!」  サーザラは、歌うようにささやくと、手をのばして、頭巾の下からケランベランの頬《ほお》をそっと撫《な》ぜた。 「お別れよ、ベラン」  ケランベランは、何かひと言、彼女に言いたかった。  だが、彼は、どうしてもそれを思いつくことができなかった。  小部屋の外では、ますます騒ぎが大きくなってゆく。  もう、猶予はない。 「サーザラ」  ひと声その名だけをつぶやき、彼は身をひるがえした。  第十話 隊商頭ジルボル  暗い地下道を手探りで進む内、道はやがて、入ってきたときと同じような上りの石段に変わった。  と、闇《やみ》の中で、彼の頭がこつりと上につかえた。  そこで通路が行きどまりなのだ。  一瞬、激しい焦りにとらわれたが、ようやく気付いて、頭のぶつかった部分を、ゆっくりと両手で押してみた。  それは意外に軽く、ずるずると横に動き、すき間から、さっとまぶしい陽光が洩《も》れてきた。 (外だ……地上だ!)  ケランベランは叫びだしたい気持ちを必死でおさえ、そのすき間から目だけをのぞかせた。  まず見えたのは、石材の山、そして切り倒された樹木もあたりに積み上げられている。  ケランベランは、思い切ってそこから上半身を突き出した。  どうやらそこは、これから城の増築が行なわれる工事の予定地らしい。  むきだしの地面に、さまざまな資材が雑然と転がしてある。  地下道の出口をふさいでいたのは、そんな資材とまぎれてしまいそうな、木の蓋《ふた》だった。  ケランベランはあたりに人気《ひとけ》のないのを確かめ、身体《からだ》を低くしたまま這《は》い出した。  そして、出口には、元通り蓋をかぶせる。  そして振り向くと、そこに城壁が見えた。  さらに、サーザラが言っていた西の城門もある。  意外なほどの近さだ。  もし、こちらを注意している人間がいたとしたら、彼はすぐにも発見されてしまうに違いない。  ケランベランは、衣が汚れるのもかまわず、動物のように四つん這《ば》いになって走り出した。  ともかくも、ここは、城の外だった。  夢にまで見た外界の空気を幾度も深呼吸しながら、ケランベランは駆けた。  充分に城から遠ざかったと思われる所まで来て、彼はようやく土ほこりを払いながら立ち上がった。  城の増築予定地と思われるむきだしの土地はそこで終わっていた。  その先、わずかずつ下ってゆく丘のふもとからは、王都の市街地がはるか彼方《かなた》まで、朝もやのなかにかすんでいた。  その家並みを東西に貫いてのびる大きな街道も見渡せる。  そこを、隊商の馬車や人々が、早くも行き交いはじめていた。  ケランベランは、少し考え、サーザラから借り受けた長い寛衣《かんい》を脱ぎすてることにした。  そして頭巾《ずきん》のついたマントだけを素肌《すはだ》にはおり、腰に帯を巻いた。  そこに、短剣をはさむと、大またで丘を下りはじめた。  これといって目算があるわけではない。  まずは都へ入り込み、人の群にまぎれ、そして機会をうかがって、街道を逃げのびるつもりだ。  歩き続ける内、やがて市街地に入った。  城の中では、今頃《いまごろ》、それこそ天地をひっくり返したような騒ぎが持ち上がっているに違いない。  だが、何も知らぬ都の住民たちは、また昨日と同じ一日が今からはじまると信じきっている様子だ。  町の様子は、彼が王宮へ連れて行かれた頃とはまるで変わってしまっていた。  ケランベランはふと、老いた養母のことを思い浮かべた。  だが、彼女が今、どこでどうして暮らしているのか突きとめるのは、ひどく難しいことに違いない。  それに、万が一、母を見つけ出すことができたとしても、それでどうなるものでもあるまい。かえって、ケランベランの罪が彼女にまで及ぶかもしれなかった。  一目会って別れを告げたい気持ちはあったが、それは果たせぬ願いだろう。  あれこれ考えながら路地をでたらめに進んでゆくと、やがて街道沿いのにぎやかな一帯に出た。  朝の早い職人や商売人相手の食い物屋が、あちこちで店開きしていた。  その売り子の声を耳にする内、ケランベランは、自分がとてつもなく空腹なのに気付いた。  思わずごくりとつばが、喉《のど》をくぐった。  だが、考えてみれば、彼は一枚の銅貨すら持ってはいない。  あれほど細かく彼を気づかってくれたサーザラだが、彼女はいかにも宮廷人らしい鷹揚《おうよう》さで、彼に金を渡すということを思いつかなかったのだ。  いや彼女は、すでにそのようなものの存在を忘れ果てている人間かもしれなかった。  だが、一歩城を出た平民の世界では、それこそが全《すべ》てだった。  今やケランベランは、最も粗末な汁一杯にすらありつくことができないのだ。  ケランベランはそのことに思い至って、目の前が暗くなる思いを味わった。  彼はよろよろと進んでは立ち止まり、うまそうな湯気の立つ食い物をかき込んでいる男たちを見回しては唇《くちびる》を噛《か》んだ。 (どうすればいい……どうすれば、食い物が手に入る……)  ケランベランは、思わず知らず、帯にはさんだ短剣の柄《つか》を握りしめた。  その時だ。 「おい、小僧《こぞう》。腹を空《す》かしているのか」  背後で声が上がった。しかし自分が呼ばれているとは気付かず、ケランベランはそのまま行き過ぎかけた。 「おい、おまえだ、小僧」  もう一度言われて、彼はようやく、びくりと背を震わせて振り向いた。  一軒の食い物屋の軒先に、一人の髭面《ひげづら》の男が腰を下ろしていた。  ケランベランを呼んだのはその男らしい。 「そうだ、おまえだ、小僧。ちょっと、こっちへ来い」  男が太い腕で手招きしている。  もう片一方の手には、焼いた肉片を突き刺した鉄串《てつぐし》が握られていた。 「おい、こっちへ来い。これを食わしてやるから、こっちへ来るんだ」  まるで犬か何かを呼ぶような調子だ。  だが、今のケランベランにとっては、食物がなによりの甘い言葉だった。  心の中では警戒と自尊の気持ちがせめぎあっていたが、足の方が無意識によろよろと動き出していた。 「そうら、小僧、これをやる。さあ、食え」  男は、手にした鉄串をケランベランに突き出した。  彼はもう何もかも忘れて、それにむしゃぶりついた。  ともかくも、ここは外界だった。  楽士たちの目もなければ、シグビルゴのこぶしを怖れることもない。  いや、それどころか、彼のことを知る人間は誰《だれ》一人《ひとり》いないのだ。 「よし、よし、小僧、うまいか?」  男の声に、ケランベランは物も言わずにうなずいた。  たちまち、大きな肉片を平らげ、マントの袖《そで》で口元をぬぐった。 「おい、おい、もったいないことをするな。そんな上物を汚しちまっちゃあ、仕方ないぞ」  男が驚いたように腕をのばし、ケランベランの手を掴《つか》んだ。 「…………?」  ケランベランは眉《まゆ》を寄せ、男の目をのぞき返した。 「しかし、小僧、若いに似合わず、いい腕だなあ」  男は髭面《ひげづら》をほころばせて言葉を継いだ。 「いったい、どこで、いただいてきたんだ? いや、それだけのものは、なかなかあるものじゃない。まさか、王宮からかっぱらってきたんじゃあるまい?」  男は小声でそう言うと、腹をゆすって笑った。  男の視線が、帯の間の短剣に向けられているのにようやく気付き、ケランベランは、はっと後退《あとずさ》った。 「待てよ、おい。儂《わし》はなにも、おまえの獲物《えもの》を横取りしようなんてケチなことを考えてやしない。そうじゃない、それどころか、そいつを適当な値段で買い取ってやろうと思っているんだ」  男は懐から銀貨を二枚取り出し、ケランベランに向けてかざした。 「どうだ、小僧《こぞう》? そういう、とびきりの品は、うまく盗み出せてもなかなかさばけるもんじゃない。だが、儂《わし》ならなんとかできる。儂は旅の商人だ。この都では売りづらいブツも、別の場所まで運べば問題はない。な? どうだ、小僧」  男は、頭から、ケランベランのことを空き巣か何かと思い込んでいるようだ。  ケランベランはどう答えていいものか分からず、ただ黙って、もう一歩後に退《さが》った。 「なんだ!? これじゃあ、不満だというのか? うーむ、よし、儂も子供をだましたなどと思われたくない。では、銀貨、もう一枚出そう。たが、これだけ払うからには、短剣だけではだめだ。その、女物のマントもいっしょに、それで銀貨三枚で、どうだ?」  男はゆっくりと立ち上がりながら、三枚の銀貨をケランベランに示した。 「待てよ、そうすると、おまえさんの着るものがなくなっちまう、か……そうだ、よし、銀貨三枚、それに新しい着物を一着、儂がどこかで買ってやる。それで、いいだろう? おい、小僧、それ以上は、いくら儂が気前がよくても出しゃあしないぞ」  男は口元を歪《ゆが》め、あごひげをしごいてケランベランをにらんだ。  ここで男の申し出を断ればどうなるか、その予想は彼にもついた。  男の目が、力ずくでもその短剣を手に入れたがっていることを表わしていたからだ。  それに、ケランベランにしたところで、金は必要だった。しかも、サーザラの豪華《ごうか》なマントをいつまでも着ているわけにはいかない。 「分かったよ、おじさん、銀貨三枚だね?」  ケランベランは、わざと乱暴な口調で、そう答えた。 「わしの名は、ジルボルだ。さあ、そうと決まったら、おまえさんの着物を見つけに行こう」  男は堂々たる体躯《たいく》をゆすってケランベランに近付き、大きな節くれだった手を彼の肩に置いた。 「待って、ジルボル。お金はいらない」急に思いついて、ケランベランは言った。「お金はいらないから、そのかわりに、俺《おれ》を連れてってくれないか? 俺はこの都を出たいんだ。どこか、他の土地を見て歩きたいんだ。あんたは旅の商人なんだろ? だったら、俺をいっしょに連れてっておくれよ」  ケランベランはすがるように、男を見上げた。 「うん? この儂《わし》といっしょに、だと?」  ジルボルと名乗ったその男は、ぎろりと目を剥《む》いた。 「……なるほど……もう、この都にはいられないほど悪いことをやっちまったってわけか」  ケランベランは、それには答えず、黙ってうつむいた。  男が彼のことをどう思おうと、それはこの際関係のないことだった。  ともかくも、無名王の王都から、できるだけ遠ざかるのが先決だ。それにはまず、王都からの出口にある街道の関所で、なんとか兵士たちの目をはぐらかす必要があった。  この男は、そのための、またとない隠れみのとなってくれそうだった。  男はまたあごひげを幾度かしごいた。  考え込んだまま、獣のように喉《のど》の奥を鳴らしはじめる。 「……うーむ、よし。仕方がない。儂《わし》の隊商に加えてやろう。だが、そのかわり、遊んでいられちゃ困る。儂等も人手が欲しかったところだ。おまえには、儂の雑役として、きちんと働いてもらう。それでいいなら、この銀貨二枚は、おまえのものだ。一枚分は、おまえの食費として儂が預かる。働きがよければ、これもいつかは返してやろう。どうだ?」  ケランベランは、強くうなずいた。  男もそれに応《こた》え、にやりと笑った。 「よし、決まった。じゃあ、約束通り、おまえさんの着物を見立てに行くこととしよう」  男は、どすんとケランベランの背中をどやしつけると歩き出した。 「そうだ、小僧《こぞう》。おまえの名前を、まだわしは聞いていなかったぞ?」  後を小走りについてくるケランベランに、男が話しかけた。 「……ベラン、いや……ベルタ、ベルタという名です」  ケランベランは、でたらめを名乗った。 「ベルタ……ふーむ……」  男は疑わしそうな声でつぶやいた。 「まあ、なんでもいい。おまえを呼ぶときに不便でなけりゃ、それでいい。おまえがどんな本名を持っていようと、わしにはどうでもいいことだからな、そうだろう? べルタ」  男が言った。  しかし本名を名乗ろうにも、カルファと呼ばれ、またケランベランとも名付けられていた彼には、それが元からありはしなかった。  彼は生まれた時から今まで、ついに無名の人間だった。  そして今や、その運命すらが、無名の未来に投げ出されようとしているのだった。  第十一話 金貨十枚の誘惑  ジルボルたちの一行が都を出立《しゆつたつ》したのは、正午を少し回った頃であった。  隊商は総勢十二人、三頭の馬と、やはり三頭の牛が曳《ひ》く荷車から成っている。ケランベランは、その二台目の牛車に押し込まれた。 「おい、ベルタ、ベルタ!……」  幾度も呼ばれて、彼はようやくそれが自分の名であることに気付いた。  慌《あわ》てて荷台の上で、ぴょこりと跳《は》ね起きたところへ、かたわらの馬上から、ジルボルのどら声が降ってきた。 「小僧《こぞう》、自分の名前を忘れるとはどういうことだ。ベルタと名乗ったのは、おまえなんだぞ!」  今やこの隊商の一員となったケランベラン、いや、ベルタはうろたえて首をすくめた。 「いいか、ベルタ。おまえがどうしてこの都に居られなくなったのか、それは聞かん。だが、無事に関所を抜けたかったら、儂《わし》の言う通りにするんだ。分かったか!?」  ジルボルを上目遣《うわめづか》いに見ながら、彼はうなずいた。 「よし。まず、その髪型だ。トトから鋏《はさみ》を借りて、もっと短く切るんだ。そして、わらクズでもまぶしておけ。なにしろ、おまえは、隊商の雑役なんだからな。それを忘れるな。それに、顔には、土でもなすりつけておいた方がいい。もちろん、手足にもだ」  ジルボルはベルタの身体《からだ》をねめ回しながら、こまごまと注意を与えた。  その間にも一行は、都のはずれの関所へと次第に近付いてゆく。  ベルタは、まず、御者《ぎよしや》のトトが放ってくれた鋏で、自分の髪をでたらめに切りつめた。  そして両手でぼさぼさになるまでかき回し、それから、荷台の上で転げ回って、全身をほこりと泥《どろ》にまみれさせた。 「ようし、上出来だ。それから、役人に何か訊《き》かれても、馬鹿《ばか》のふりをして答えるんじゃないぞ」  ジルボルは言い捨て、馬の腹をひとつ蹴《け》ると、一行の先頭へもどっていった。  ベルタは、粗末な一枚布の着物をかきあわせ、腰の荒縄《あらなわ》を締め直した。  それから改めて自分の身体を見回し、そのどこかに宮廷楽士ケランベランの面影が残っていないかどうかを確かめた。  両手の指が、繊細で綺麗《きれい》すぎるが、こればかりは、どうやっても急ごしらえはきかない。  だが、その他は、いかにも雑役の小僧然とした風体になりおおせている。  ベルタは深いため息を吐いて、乾草と木箱が積まれている荷台のすみに腰を下ろした。  と、その時、「ホウ、ホウ!」というトトのかけ声とともに、牛車は軋《きし》みながら速度を落としはじめた。  前方で、関所の番人が、一行に停止を命じたのだ。 「お役目、ごくろうさまです。わたくし、タブレゴントの町からやってまいりましたジルボルと申す商人、西の砂漠《さばく》で獲《と》れます毛皮を主に商っております。王国の類稀《たぐいまれ》なる繁栄のおかげで、ご覧の通り、荷はほとんどがさばけまして、今積んでおりますのは、この都で仕入れました日用の工芸品……これをタブレゴントまで運んで帰るところでございます。なにとぞお改めの上、通行をお許し下さいますよう……」  検問官に向かって、ジルボルが口上を述べた。  そして、積み荷の内容をしたためてある紙片を渡しながら、素早く数枚の銀貨をその役人の掌《てのひら》に押し込んだ。  検問官は、何気ない顔付きでそれを受け取った。  そして槍《やり》を構えて立つ番兵たちに合図して、形だけの積み荷検査をはじめる。  それは、木箱の外側を軽くこぶしで叩《たた》いてみるといった、実におざなりなものだ。  検問官が、ベルタの乗る牛車のところまでやってきた。  彼とベルタの視線が一瞬からみ合った。  その直後、検問官の表情に、はっきりと不審の色が浮かび出たのをベルタは見逃さなかった。  ベルタは慌《あわ》てて目を伏せ、じっと荷台の隅《すみ》にうずくまった。 「おい、おまえ、名前はなんという?」  眉《まゆ》の間にしわを寄せた検問官が彼に問い質《ただ》した。 「お、お、おれはベルタ……」  彼は、まんざら芝居とは言えぬぎこちなさで、ともかくもそれだけ答えた。  そこへ、ジルボルが助け舟を出した。 「検問官どの、その小僧《こぞう》に話しかけても無駄《むだ》でございますよ。そやつ、生まれた時からここがいかれてまして、自分の名前ひとつ満足に覚えられないんで」 「こいつ、おまえたちの仲間のひとりか?」  ベルタの顔を見つめたまま、検問官が訊《き》いた。 「そうでございますが、何かご不審の点でも?」 「いったい、いつから、仲間に加わった?」 「え? それは、もう……そう、こいつが十の時、わしがひろってやりまして、それ以来、ずっと雑役に使っております」  ジルボルはぬけぬけと言い張った。 「その言葉に、いつわりはなかろうな?」 「もちろんでございますとも。なあ、みんな?」  ジルボルは隊商の部下たちを見渡して言った。  全員が、それぞれ、肯定のつぶやきを洩《も》らす。 「それならば、よいが、な……」  検問官は、なおも疑いを捨て切れぬ様子で、唇《くちびる》を尖《とが》らせた。 「いったい、こやつの、どこがお気に障《さわ》りますので?」  馬から下りたジルボルは、もみ手をしながら検問官に近付き、卑屈な笑い顔で相手を見上げた。 「いや、なに……おまえたちの言葉に嘘《うそ》がなければ、それでいい。我等は、ちょうどこの少年と同じ年格好の人間をとりおさえるよう命じられておる。そいつは、城の楽士でケランベランという名だが……なんでも、大変な美貌《びぼう》らしい」 「おお、それならば、この小僧は絶対に無関係ですわい。まあ、顔立ちは一人前ですが、なんせ、頭の中身が……とても、楽士などになれる小僧ではございませぬ」  ジルボルは、ベルタの背をどうと叩《たた》いて、笑い出した。  部下たちも、ジルボルに合わせて笑い声をたてた。  そんな様子を、自分に対する侮辱《ぶじよく》と感じたのか、検問官は急に不機嫌《ふきげん》な表情になり、くるりと背を向けて、番兵たちの方へ歩み去った。  そして、片手を面倒臭そうに打ち振って叫んだ。 「よし、通ってよい。早く行け! だが、もしどこかで、そのような小僧を見掛けたら、すぐひっとらえて、我等のところまで連れてくるように。そやつには、金貨十枚の賞金が懸《か》けられておるのだからな」 「金貨、十枚……」  ジルボルが、その言葉を復唱したのが聞こえた。 「そうだ。十枚だ」  言って、検問官は、番小屋に姿を消した。 「金貨十枚……十枚、か……」  ジルボルが、またそうつぶやき、馬にまたがりながら、ちらりとベルタを盗み見た。  だが、それだけで、彼は「セイ!」と馬をどやしつけ、ともかくも隊商を出発させた。  一行は、ぞろぞろと縦隊を組んで、関所をくぐり抜けた。  街道を西へと進みはじめる。  その時になって急に、ベルタの全身から冷たい汗が吹き出してきた。  それは、彼がわざと汚した顔面や手足を伝い、そこに、幾本もの筋をつけた。 「おい、ベルタ!」  いきなり呼びかけてきたのはジルボルだ。 「おまえ、まさか……」  それだけで、彼の質問したいことは察しがついた。 「ジルボル、違うよ。人違いだ。俺《おれ》は、楽士なんかじゃない!」  ベルタは、思わず大声でそう叫んだ。 「そうか……いや、そうだろうな……うむ……」  それきり、ジルボルは沈黙した。  気のせいか、一行の足取りが、めっきり遅くなった。  ジルボルは、馬上で何事かを考え込んでしまっている。  危険な雰囲気《ふんいき》だった。  かつてのケランベラン、ベルタは、はっきりとそれを感じていた。  だが、今、ここから逃げ出せるものではないことも明らかだった。  ベルタの動きは、後続の牛車の御者に見張られている。  たとえ荷台から跳《と》び出しても、ジルボル他、馬に乗った男たちが、たちまち彼を追いつめることだろう。  また、そんな行動に出れば、自分から正体を白状するようなものだ。  ベルタは、全身を緊張でこわばらせたなり、牛車の震動に揺られている以外なかった。 「ホオウ!」  ようやく、王城の頂きが起伏の向こうに見えなくなりかけたあたりで、突然、ジルボルが、一行に停止を命じた。 「おい、トト……ここいらあたりでひと休みしよう。きのうの悪い酒のせいか、喉《のど》が乾いてたまらん」  いち早く馬から下り立ったジルボルが、口元をぬぐいながら、ベルタの乗る牛車の御者に言う。 「へい、あっしもちょうど、そう思っておりやした」  トトが、わざとらしく彼にうなずき返す。 「おい、小僧、おまえも疲れたろう。さあ、こっちへ来て、ぶどう酒でも一杯やってくれ。遠慮はいらない、さあ」  だが、親切めかした声音にもかかわらず、ジルボルの魂胆は見えすいていた。  彼はついに、金貨十枚の誘惑に負け、ベルタを取り押さえて、都へ連れもどす決心をしたのだ。  御者のトトも、ベルタの退路をふさぐようにして荷台に足をかけ、油断なく身構えている。  そして、にやにやと髭面《ひげづら》を歪《ゆが》めたジルボルが、彼の方へと歩み寄ってきた。  こうなっては、もう仕方がない。  ベルタは、観念した風を装って、のろのろと荷台から地面に下りた。 「ようし、よし……逆らえば、痛い目に会うだけだからな、小僧」  ついに本性を露《あら》わにして、ジルボルが太い腕をのばしてきた。 「……別に、おまえさんが、その楽士さまだと信じてるわけじゃない。だがな、金になりそうなことは、一応、確かめてみないと気が済まない性分でな。分かるだろう、え? ベルタよ……もし、おまえが嘘《うそ》をついてるんでなきゃあ、儂《わし》らは、どんなことをしてでも、おまえを守ってやるさ。これは、最初からの約束だからな。そうさ……だから、心配するには及ばんよ。ちょっとばかり引き返して、いったい、王宮で何があったのか、それを確かめてみるだけだからな……」  言いながら、ジルボルの手が、ベルタの肩を掴《つか》もうとした。  その瞬間——!  ベルタは敏捷《びんしよう》な小犬のように身体《からだ》をたわませてその下をかいくぐった。  そして、駆け出した。  逃走をほとんど予期していなかったのか、ジルボルの両手は空を掻《か》いた。そのまま、二歩、三歩とよろめく。  その間に、ベルタは跳《と》んだ。  そして、ジルボルが乗っていた馬の背にしがみついた。  突然、人に跳び乗られたその栗毛《くりげ》は、驚いてひと声高くいななくと走り出した。  慌《あわ》てふためいたのはベルタも同じだ。  これまで、馬や牛に類する巨獣に一度たりとも触れたことのない彼だ。  ただひたすら、振り落とされまいと、ジルボル用のごつい鞍《くら》を抱きかかえているのが精一杯だった。  もちろん、手綱《たづな》を操る知恵などあろうはずがない。  背後から、ジルボルのすさまじい罵声《ばせい》が微《かす》かに耳に届いてきた。  すでに、他の二頭の馬に乗った男たちは追跡に移っていることだろう。  だが、ベルタには、それを振り向いて見る余裕すらなかった。  彼には、狂ったように風を巻くたてがみと、自分がしがみついている鞍の前部しか見えない。  しかし、ともかくも、馬は走り続けている。  背後の怒声は次第に近付きつつはあるが、まだ遠い。  このまま逃げ切れるとは到底思えないが、今は、一歩でも、二歩でも都から遠ざかることだ。ベルタの頭の中には、それしかなかった。  そして、ふと見ると、鞍のわきの小袋から、見知ったものの先端が突き出していた。 (短剣だ……サーザラの短剣だ……)  この絶体絶命の状況にあって、それは、ベルタにとって、唯一《ゆいいつ》の救いの象徴と見えた。  彼は無我夢中で、その柄《つか》を掴《つか》んだ。  その直後——慣れぬ乗り手に、ついに業《ごう》をにやしたのか、馬かぶるっと大きく背をゆすった。そして急に脚を突っ張ると、棹立《さおだ》ちになった。  短剣一本片手に握りしめたまま、ベルタは見事に空中へ放り出された。  街道わきの土手に向けて落下しながら、彼はすさまじい勢いで後を追ってくる二頭の馬の姿をはっきりと目にした。  そして、地面に叩《たた》きつけられた。  絶望と激痛が、彼の視界を、真っ黒に塗りつぶした。  だが、それでもベルタはあがいた。  あがき、のたうつ内に、ぽかりと目が開いた。  そんな彼を踏み殺そうとするかのように、二頭の馬が突進してきた。  ベルタは、わけも分からず、短剣を鞘《さや》から抜き放った。 「小僧《こぞう》——なめた真似《まね》をしやがって!」  ジルボルの部下のひとりが、片手に棍棒《こんぼう》を握り、唸《うな》りながら馬から跳《と》び下りてきた。  もう一頭に乗る男は、そのまま、馬上からベルタを威嚇《いかく》する。  地面に横たわったまま、ベルタは必死で短剣を彼等に振りかざした。  しかし、その獰猛《どうもう》な追っ手の前に、彼が手にする得物はいかにも非力に見えた。 「野郎! まだ手こずらせるつもりか——」  ひとりが、大またで土手を駆け降りながら、棍棒を頭上で振り回す。  しかし、彼はそれをベルタの頭に叩《たた》きつけることができなかった。  なぜなら、彼がそうするより早く、その棍棒は音もなく襲いかかってきた何ものかによって、払いとばされてしまったからだ。  男が大口をあき、目を剥《む》いた。  ベルタも、思わぬ成り行きに息を呑《の》んだ。 「やめないか! 大の男が二人がかりで、そんな少年をいじめて、なにが面白い——」  ベルタも、そして、彼を追ってきた荒くれたちも、いっせいにその方角を見た。  声の主は、街道の土手の上から、彼等を見下ろしていた。  黒ずくめの服装をした男だ。  その手には、蛇《へび》のようにとぐろを巻く長いしなやかな鞭《むち》が握られていた。  その鞭が、さらに唸《うな》った。  空《くう》を切り、反撃の余裕さえ与えずに、ジルボルの一行を薙《な》ぎ払い、蹴散《けち》らした。  第十二話 不思議な馬車 「怪我《けが》はないか」  男が訊《き》いた。 「…………」  ベルタは黙ってうなずいた。 「都から来たのか?」  男は、ベルタを地面から引き起こすと、重ねて質問した。 「そう……」  やっと、小さな声が出た。  そんな彼を、男は、めずらしい小さな獣を見るような目つきで一瞥《いちべつ》し、それからゆっくりと、ジルボルたちが逃げ去った方角に頭をめぐらした。 「心配するな。奴等、二度ともどってなど来るものか。それを思い知らせるために、こいつを使ったんだからな」  短いひさしが前後についた奇妙な帽子から長靴《ちようか》にいたるまで、全身黒ずくめの装束《しようぞく》で身を包んだその男は、言い終えて大きく笑い、両手で握った長い鞭《むち》を、二度、三度としごいてみせた。 「え、ええ……でも……」  ベルタは、曖昧《あいまい》につぶやいた。  この男に対して、どのような態度をとればよいのか、彼はまだ決めかねている。  賞金めあてに、ベルタを都へ連れ帰ろうとしたジルボルたちをともかくも追い払ってくれたのは、確かにその男だった。  だが、だからと言って、男が彼の絶対的な味方、庇護《ひご》者であるという保証はない。  ことに、ジルボルの豹変《ひようへん》ぶりを目にしたばかりの彼は、なかなか心のこわばりを解くことができなかった。  ベルタは、身がまえるような気持ちで、男をにらみつけた。  しかし、男は、そんなベルタに頓着《とんじやく》する風もなく、にやりと笑って、彼に向き直った。 「さて、と……で、おまえ、これから、どこへ行くつもりだ?」 「西へ」  男の何気ない様子につられて、ベルタは思わず素直な願いを口に出した。  ともかく、都から、一歩でも遠ざかりたい。  彼を捕らえそこなったジルボルの一味が、彼の居場所を知らせに、都へと駆けもどりつつあることは容易に想像がついた。  いや、すでに、彼が都から脱け出たことが知れ、追っ手がかけられているかもしれない。  それを思うと、彼は、居ても立ってもいられない焦りに捉《とら》われた。 「……そうか、この街道を西へ行くんだな?」  男の片手が、彼の肩に置かれた。  ベルタはびくりと背を震わせ、しかし、こくりとうなずいた。 「おい、何をそんなにおびえてる。だいじょうぶだ。このわたしが、ついているではないか」  男は自信たっぷりに肩をそびやかせ、輪のように丸めた鞭《むち》を、誇示するようにかかげてみせた。 (いったい……この男は何者……)  余りにも屈託のない男の様子に、かえってベルタの疑いは深まった。  だが、だからといって、この場から逃げ出すわけにもいかない。  彼は思い悩みながら、男の目を見返した。 「よし。そうか。じゃあ、わたしといっしょに来るがいい」  男が言った。 「…………」  判断しかねて、ベルタは立ちすくむ。 「どうした? 西へ行きたいんじゃないのかね? わたしは、今、トルタンへもどる途中だ。だから、そこまでなら、連れていってやろうと言ってるんだ。ひとり旅で、ちょうど退屈しかけていたところさ。おまえさんなら、大した荷物にもならん」  男は、ベルタをうながした。 「トルタン?」  ベルタは、はじめて聞くその名を、口の中で繰り返した。 「そうさ。トルタンを知らんのか?」  男が驚いたように、眉《まゆ》を寄せた。  ベルタは仕方なく、うつむいた。 「西だよ。この街道の西にある、大きな港町だ。そこが、わたしの故郷なんだ。そうか……おまえ、都から出たことがないんだな? これが、はじめての旅というわけか。それで、あんな、おかしな連中にひっかかってしまったというわけか」  男は、ひとり納得《なつとく》したかのように幾度もうなずき、目顔で、ベルタについてくるよう合図した。  ここは、黙って言う通りにした方がよさそうだ、とベルタは思った。  なんであれ、男は、彼を西へ連れて行くと言っている。今、ベルタにとっての唯一《ゆいいつ》の望みも、また、それだった。  ベルタは、男の大きな背中について、街道へと、土手を登りはじめた。  そうしながら見回すが、ジルボル一味の姿は、少なくとも彼の目には入らない。やはり彼等は、一目散に王都へと引き返していったのであろう。 「あれだ。あれが、わたしの車だ」  男の声に目を上げると、街道の路肩に、天蓋《てんがい》つきの四輪馬車が止まっている。  ただ、不思議なことに、それを引く馬の姿がない。  それでも、男は、すたすたと平気な歩調でその馬車に近付き、側面の小さな扉《とびら》を開いて、ベルタを手招きした。  ベルタは一瞬、その男の頭が、どこかおかしいのではないか、と疑った。  馬のつないでいない馬車に乗り込んで、いったい、どうしようというのか。  ベルタは、途方に暮れた。しかし、男が握る鞭《むち》の怖ろしさを思って、おずおずと車体に足をかけ、御者台に上った。  男の隣に腰を下ろす。 「いいか? じゃあ、出発だ!」  男が陽気に声を張り上げた。  そして、彼の座席の下から突き出ている二本の棒を握り、足元にある踏み板のひとつを、何度か蹴《け》りつけた。  と、どうだろう。  突然、馬車全体が、ぶるんと身震いしたかと思うと、なんとも形容しがたい騒がしい物音が、床下で湧《わ》き起こったのである。 「ひい……」  余りのことに、ベルタは悲鳴を上げ、御者台の枠《わく》にしがみついた。  ガクン……ガタン……ド、ドドドドド……  男が、二本の棒を、ゆっくりと前に倒すのが見えた。  それにつれて、騒音は、なおも高まる。  また、馬車が、まるで生き物ででもあるかのように大きく震えた。  そして次の瞬間、馬車は風を切って前進をはじめたのである。 「は……走った……」  そう、弱々しくつぶやくのが精一杯だった。  突き上げてくる震動で、御者台から放り出されそうな恐怖を覚える。  実際には、荷台の枠《わく》や扉《とびら》、それに天蓋《てんがい》までついているのだからその心配はないのだが、ベルタはただ必死で、身体を縮め、こわばった指を座席に食いこませて、震動に耐えた。  いくら前方に目をこらしても、そこに馬の姿はない。  それなのに、馬車は、ゆっくりと速度を上げながら、街道を走り続けている。  道が、馬車によってたぐり寄せられてくるようにも見える。  そこに馬がいてくれさえすれば、どうということはないのだろうが、道路をすぐそのまま見下ろす御者台に座っていると、まるで坂道を転げ落ちてゆくような、言いようのない不安に駆られる。  ベルタは呻《うめ》いた。  胃の中のものが、不意に喉元《のどもと》にせり上がってきて、彼は慌《あわ》ててそれを呑《の》み下した。  冷や汗が、とめどなく、こめかみから滴り落ちてきた。 「なんだ? こういう車は、はじめてか?」  ベルタの様子に気付いて男が呼びかけてくるが、それに答えることもできない。  騒音で頭の芯《しん》がすっかり麻痺《まひ》し、目もかすんできた。  いっそ、ここから地面に放り出されてしまいたい気分だ。それほど、その不安定感は耐えがたく思われた。 「おい、おい、何をそう力んでるんだ。おまえがいくら頑張《がんば》ったって、この車は速くなりやしないぞ!」  男は怒鳴り、二本の棒を両足の間にはさむと、空いた手をベルタの方にのばしてきた。  そして、それでも座席にしがみついているベルタの指を無理矢理ひきはがし、背中をどすんとどやしつけて、彼を座り直させようとした。 「う、馬がいない……どうして……」  わけも分からず男に抗《あらが》いながら、ベルタはようやくその疑問を口にした。 「なに? 乗るのもはじめてなら、こいつを見るのもはじめてか?」  男はあきれたように肩をすくめ、それから慌てて、二本の棒を握り直すと、蛇行《だこう》しはじめた馬車の針路を立て直した。  どうやらその棒が、手綱《たづな》のような働きをするらしい。 「そうか、そうか……うむ、まあ、ここいらでは、そうも見かけることはないだろう。ましてや、都より西へはじめて出かけてきたのなら、それもあり得ることだ」  男は、黒い帽子のひさしを片手でちょっと引き下ろすと、二本の棒を、さらに前に倒した。  すると、馬車は、まるで後から蹴《け》とばされでもしたように、ガクン、ガクンと車体を震わせ、さらに速度を上げたようだ。 「いいか、見てろ……この棒を、こうして前に押すと、車は、もっと速く走り出す。逆に、手前へ引けば、ゆっくりになる。引き切れば、そこで止まってしまうというわけだ——」  男が棒を前後させると、なるほど、それにつれて、馬車の速度は変化する。 「——それでだ、右へ曲がりたい時は、こうやって、右の棒を手前に引く……そうすると、右側の車輪の回転が落ちて、車は右へ旋回する。左へ曲がりたければ逆だ——」  男は意のままに、馬車の向きを変えてみせた。  その説明を聞く内に、ベルタの胸の中で、恐怖を打ち負かす好奇心が次第に大きくなってきた。  そうやって、少し気を落ち着けてあたりを見ると、この馬なしの馬車が、それほどの速さで走っているわけではないことが分かってきた。  床下から聞こえる騒音に驚かされて、すさまじい疾走《しつそう》感を覚えていたベルタだが、男が棒を前に倒しきった時でも、馬車はせいぜい、人間が駆け出したくらいの速さにしかならない。  普通に走っている時は、容易に飛び乗り飛び降りができそうな程度だ。  それに気付くと、さっきまでの動転した心が嘘《うそ》だったように、平静さがもどってきた。  ベルタは肩の力を抜き、照れたように、額の汗を拭《ぬぐ》いながら、御者台の上で身じろぎした。  そして、彼にとっての最大の疑問を、もう一度繰り返した。 「で、ですが……馬は? 馬は、どこにいるんです?」 「馬か」  男は、いたずらっぽく頬《ほお》を歪《ゆが》め、首を傾《かし》げた。 「ほんとうに、この自動馬車のことを知らんのか?」 「自動馬車……? いえ、知りません」  ベルタは、正直に答えた。 「うむ……なるほどなあ。こいつは、海の向こうから運ばれてきたもので、トルタンにも、二、三十台しかない。時には、わたしのように遠乗りにでかけてくる物好きもいるが、大半の持ち主は、こそこそ市内を乗り回しているだけだ。だが、噂《うわさ》くらいは、このあたりにも届いていると思っていた……」  言いながら、男は、車をわざとジグザグに走らせてみせた。  行き交う旅人や、隊商が、慌《あわ》てて道をあける。  中には、わけのわからぬ罵声《ばせい》を投げかけてくる者もいるが、大半は、その場に立ち止まり、目を丸くしてこの不可思議な四輪馬車を見送っている。 「ふん!」  男は得意そうに鼻を鳴らした。  ベルタは、ただ目を見開き、男の一言一言にうなずくばかりだ。 「そら、この棒を、おまえも握ってみろ。そして、この車を操ってみるといい」  男は気軽な調子でそう言うと、急に、二本の棒から手を離した。  と、車は、まるで手綱の主を失った馬車そのままに、右へ左へとよろめきはじめた。  慌てて、ベルタは、その棒に飛びついた。  そして、棒を必死になって両手で固定した。  すると、車はまた、一定の方向へ、一定の速度で進みはじめた。 「あっ……うう……」  意味にならないつぶやきを洩《も》らしつつ、ベルタは怖る怖る、棒を前へ倒してみた。  すると、自動馬車は、わずかずつ速さを増し、小石を車輪ではじきとばしながら、街道を突進しだすではないか。  ベルタは慌てて二本の棒を手前の位置にもどし、車を、ゆっくりと真っすぐに走らせはじめた。 「ようし、いいだろう……」男は上機嫌《じようきげん》で言った。「どこに、馬がいるか、おまえに教えてやろう!」  ベルタは、息を呑《の》み、男の次の言葉を待った。 「ここさ、この下に、馬が隠れているんだ」  言いながら、男は足で、御者台の下の床をどんどんと鳴らした。 「しかし、それは、ただの馬じゃない。小さな、鉄の馬だ。それが何頭もこの下に隠れている。そして、わたしが、この鉄の拍車《はくしや》をくれてやると、いっせいに走り出すというわけだ」  男は、自動馬車を動き出させる時に幾度も蹴《け》った足元の踏み板をつま先で示した。  慌《あわ》てて棒を引きもどすと、自動馬車はガクンと遅くなった。 「そらそら……あんまり引きすぎると、車が止まってしまうじゃないか。そうなると、また、その、馬たちを動かすのに時間がかかる」  言いながら、男は、ベルタの手の上に自分の手をそえ、今度は、右、左に旋回する方法を彼に教えはじめるのだった。  一本道の街道は、うねうねと西へ向かってのびている。  そしていつしか、あたりの風景は、緑濃い草原に変わっていた。  さらに前方に、大きな森林地帯が見えてきた。  そこの森林に、まさに半身を沈めようとしている巨大な日輪が、正面から、ベルタに真紅《しんく》の光を投げかけてくるのだった。 「ようし、もういいだろう……」  車の操作にすっかり夢中になってしまっていたベルタから、二本の棒を取りもどして、男が満足そうに言った。 「よし、よし、その調子なら、明日は、わたしにかわって、こいつをおまえにまかせられる。そうなれば、わたしはゆっくりと、あたりを見物しながら旅が続けられるというものだ。見えるだろう、あの森の手前に、手頃《てごろ》な旅館が何軒かある。今夜は、そこで休むことにしよう」  男は、車の調子を確かめるように、棒を幾度か前後させると、それを一気に、前に押し倒した。  土を噛《か》んだ四つの車輪が、勢いよく回転をはじめた。  どうやら——波乱の一日は、終わろうとしている。  ベルタは、長いため息をつき、御者台の上で、はじめて思いきり手足をのばした。  もう、この馬なし馬車の震動にも、すっかり慣れた。不安感も消えていた。  と同時に、打ち続いた緊張から来る、重い澱《おり》のような疲労と、締め上げるような空腹感が、急に、彼を苦しめはじめていた。  だが、それは、これまでのことを思えば、むしろ快い苦痛と言えた。  彼は、頭の中を空《から》っぽにして、今しも森の陰に没しようとする太陽に目を細めた。  その時、彼の耳はふと、何かとてつもない不吉な予兆を感じさせる物音を微《かす》かに聞いた。  全身が、みじめに縮み上がり、激しく震え出した。  それは、背後から急速に近付いてくる、多数の乱れたひづめの響きだった。  第十三話 トルテンベルの最期  男は、まだ何事にも気付いていない。  いや、ただ単に、気にとめていないだけかもしれなかった。  しかし、ベルタはそうはいかない。  彼の耳は、今や過敏な猟犬のようにそばだてられていた。 (まちがいない! 何かが、来る……)  すでに、乗っている車の震動とははっきり違う大地の轟《とどろ》きまでが、感じとれるようになっていた。  それでも、ベルタは、振り返る勇気を奮い起こせなかった。  やってくるものの数は、余りにも多い。  もし、それが、怖れていた王城からの追っ手であるなら、到底、逃げおおせることなどできそうにない。  ベルタは思わず、両目をきつく閉じた。  だが、ここまで来て全《すべ》てをあきらめねばならないとしたら、なんと酷な運命であることか。そのことが、どう考えても口惜《くや》しかった。  ベルタは、また、かっと目を見開いた。  男は、何も知らぬ気《げ》に、二本の操作棒をのんびりと握っている。  彼の言った森のはずれの旅籠《はたご》は、もうすぐそこだ。 「お願いです、もっと、急いで!」  たまらず、ベルタは言った。 「ん? 急ぐったって、もう……」  言いかけてようやく、男は、後から迫り来る、ただならぬ気配に勘付いたらしい。  首をめぐらす。 「おっ!? なんだ、あいつらは!」  男の口から、すっとんきょうな叫び声が洩《も》れた。  直後——男とベルタの乗る馬なしの馬車は、嵐《あらし》のような勢いで追いすがってきたものたちの、いななきと土煙にすっぽりと包み込まれていた。  しばらくは、何が何やら分からない。 「止まれ! 止まるんだ!」  どこかから怒号に似た命令が浴びせられた。  車が、ガクン、ガクンとよろめくように停止する。だが、震動が続いているところをみると、小さな鉄の馬とやらは、まだ、御者台の床の下で、足を踏み鳴らして次の命令を待っているようだ。  やがて、土煙が少しずつ晴れてきた。  そして、ベルタは見た。  彼等の車の周囲をびっしり埋めているのは、完全武装した騎兵の一団だった。そして、その彼等の身につけている武具は、ベルタ、かつてのケランベランにとって、余りにもなじみの深いものだったのである。 「おい、なんのつもりだ!」  操作棒から手を離したトルタンの男が、御者台のかたわらに置いてある長い鞭《むち》を握ったのが見えた。  事情を知らぬ彼は、この騎兵たちの行為を全くの無法と思い込み、本気で腹を立てているらしい。 「おまえ、ケランベランだな?」  男に構わず、隊長格と思われる一人が、騎馬のまま車に近付いてくるなり、そう言った。  ベルタは黙って、その兵士から顔をそむけた。 「なんだ、おまえたちは!? 無礼な奴《やつ》だ」  トルタンの男は、さらに、いきりたった。  自分が無視されたことで、怒りを倍加させたのだろう、鞭を片手に、御者台の上で仁王《におう》立ちになる。  しかし、騎兵隊長は、彼を一顧《いつこ》だにせず、ただベルタを正面から見据《みす》えている。  そして、言った。 「来るんだ、ケランベラン。王城へもどるんだ」 「待て! おまえら、あの野盗の仲間か? この少年を、どうするつもりだ!」  トルタンの男が、逆上してわめいた。  その声で、騎兵隊長の眉《まゆ》がぴくりと動いた。うるさい野犬を見る目付きで、男の方に首をめぐらす。 「おまえは、誰《だれ》だ? こんな、おかしな馬車に乗っているところを見ると、どうやら、西の人間らしいが、こんなところで何をしている?」  騎兵が言った。 「そっちから名乗るのが礼儀であろう。わたしの自動馬車を無理に停車させておいて、おまえは誰だ、もないものだ」  男がやり返した。 「なるほど。あなたの言うことも、もっともですな」  隊長は、わざとらしい丁寧さで応じた。 「我々は、無名王の親衛隊だ。都の王城から、そやつを追ってやってきた」  彼はベルタに人差し指をつきつけた。 「この少年が、何をしたというのだ!? 大げさな!」  トルタンの男が、吐き出すように言う。 「そいつの名は、ケランベランという。宮廷楽士のひとりだった。昨夜、宴席でとんでもない不始末をやらかし、その上、我等が無名王をあやめようとすらした。そして城から逃げ出したのだ」  隊長はあっさりと、ベルタの正体を暴露《ばくろ》した。  これには、さすがのトルタンの男も驚いたようだ。  眉《まゆ》を吊《つ》り上げ、ベルタに向き直る。 「おまえ、本当にそのケランベランなのか?」  男が訊《き》く。 「ちがう! 俺《おれ》はケランベランなんかじゃない。俺の名はベルタだ。あの時も、そのケランベランとかいう奴《やつ》と間違えられて、おかしな男たちに追いかけられていたんだ!」  無駄《むだ》と知りつつも、ベルタは抗弁した。  しかし、そうしながらも、ベルタは隊長が喋《しやべ》った言葉に、どうしても引っかかっていた。彼は、ケランベランが、無名王をあやめようとした、と言ったのではなかったか。だとすれば、王は、まだ、生きている、ということか? 「いや、こいつはケランベランだ」断ち切るような口調で、隊長が言った。「おとなしく、我々といっしょに来るんだ」 「そうはいかんぞ!」  鞭《むち》を片手に、トルタンの男が叫んだ。 「わたしは、西の町トルタンで、市の評議員をつとめる者だ。名は、サバ・トルテンベルという。たまたま、遠乗りの小旅行の帰り、この少年が、野盗どもに襲われているのを見つけて助けた。聞けば、それも、人違いのためだというではないか。いや、許さん。わたしも、トルタンでは、責任ある仕事をまかされている人間だ。街道で、このような野蛮がまかり通っているのを見過ごしにはできん」  男は、いささかムキになって、首を強く左右に振った。 「ほう、議員殿か」騎兵隊長が、口元を歪《ゆが》めた。「だが、ここはトルタンではない。しかも、どう言いつくろおうと、そいつは、ケランベランという罪人だ。黙って、こちらに引き渡してもらおう」 「ここが、トルタンでないというなら、ここはおまえたちの領地内でもないぞ。そんな勝手は許されんはずだ。ともかく、わたしの自動馬車に乗っているかぎり、この少年は、わたしの道連れだ。彼に対する無礼は、わたしに対する無礼だ」  男は言い張った。  もはや、男にとって、ベルタが罪人であろうがなかろうが関係なくなっているようだった。彼はただ、自分の権威が犯されることに対して、激しく反発しているに過ぎなかった。  もし騎兵隊長が、丁重に、ベルタの引き渡しを申し出ていたなら、彼はあっさりと、それに応じたに違いない。  しかし、議員としての自尊心を傷つけられた彼は、意地になってベルタを守ろうとしている。  人に命令することに慣れ切っている人間特有の反応だ。  彼は、ベルタを自分の持ち物とみなしているのだ。  そのことが、ベルタにもはっきりと了解できた。  そして、今、ベルタが頼れるのは、そんな彼の鼻っ柱だけだった。彼はひたすら身を縮め、その場の成り行きを見守るしかなかった。 「まあ、余り、めんどうは起こしたくないが……」  騎兵隊長は、不快気に顔をしかめ、考え込むような口調で続けた。 「……とにかく、我々は、そやつを城へ連れ帰らなくてはならない。しかし、確かに、議員殿の言う通り、ここは、無名王の領地外でもある……さて、どうするかだ……」  急速に、夕闇《ゆうやみ》があたりを包みはじめていた。その闇の中で、騎兵隊長の両眼がぎらりと光ったように見えた。 「……よし、では、こうしよう、議員殿。こやつケランベランには、金貨十枚の賞金がかけられていた。それを、そっくりお払いしよう。それなら、文句はあるまい」  隊長が言った。  そして、腰に吊《つ》った物入れを探り、そこから鈍く光る金貨を掴《つか》み出そうとした。 「馬鹿《ばか》にするな!」  いきなり、トルタンの男が右腕をふるった。  輪にしたまま握っていた鞭《むち》で、隊長の頬《ほお》を打ったのだ。 「うっ!」  危うく馬上で踏みとどまった彼の唇《くちびる》の端から、一筋の鮮血が滴り落ちた。 「おう!」 「おう!」  すさまじいどよめき、そして罵声《ばせい》が湧《わ》き起こった。  一瞬で、男とベルタは、白い抜き身の群に取り囲まれた。  そして最後に、ゆっくりと、騎兵隊長自らも腰の長剣に手をのばした。 「つけあがるのも、いい加減にしておけばよかったものを……」  彼が唸《うな》るようにつぶやいた。  だが、トルタンの男は、ただそれを見守ってはいなかった。  指を開いて、巻きとっていた長い鞭《むち》の先をばらりと落とした彼は、間髪《かんはつ》を入れず、それをふるった。  数人の騎兵が、一撃をまともに食らって鞍《くら》からはじき落とされた。  逆上した騎兵隊長が、上半身を野獣のようにかがめ、長剣を突き出して跳《と》びかかろうとする姿が、ちらりと見えた。  咄嗟《とつさ》に、ベルタも動いた。  彼が掴《つか》んだのは、この自動馬車の、二本の操作棒だった。  思いきり、それを前に押し倒す。  次の瞬間、自動馬車は狂ったように震え、跳《は》ねた。  そして、突進した。  ドスン!  すぐさま、鈍い、しかし激しい衝撃がきた。  自動馬車が、目前の騎兵隊長の乗馬と激突したのだ。  馬が横ざまに押し倒された。  自動馬車自体も、転覆しそうなほど傾いて、左に跳ばされる。  だが、それでも、自動馬車の突進は止まらない。  床下では、鉄の馬が、金切り声を張り上げている。それを受けて、四つの車輪も、必死で地面を蹴《け》り続けている。  突然走り出した自動馬車の御者台でよろめき、後部の荷台に投げ出されたトルタンの男が、素早く起き上がり、また、長い鞭《むち》をふるうのが見えた。  絶叫、悲鳴……  自動馬車は、また、幾頭もの馬体と衝突し、その度に、ばらばらになりそうな軋《きし》り音を上げながらも突進を続けた。  そして、ともかくも、騎兵たちの囲みだけは抜けた。  操作棒にしがみついているベルタは、トルタンの男が�拍車《はくしや》�と呼んだ踏み板を、わけも分からず、幾度も蹴りつけた。  そうすると、鉄の馬の咆哮《ほうこう》がさらに高まり、それにつれて、自動馬車の速力も増すようだ。  しかし、いくら速度が上がったとしても、騎兵の全力|疾走《しつそう》に敵《かな》うはずもない。  後の荷台で鞭を振り回すトルタンの男が、その追撃をかろうじて食い止めているが、それがいつまでも続くとは思えない。  唯一《ゆいいつ》の望みは、眼前に迫ってきた、森林地帯に逃げこむことだけだ。  ベルタは歯を食いしばり、ひたすら、足元の踏み板で、自動馬車をあおり続けた。 「や、やられた!」  悲痛な叫びが上がったのは、馬車が、まさに森のはずれの樹間に突っ込もうとするその寸前だった。  しかし、ベルタには、振り向く余裕もなかった。  まだ、木々はまばらだが、夕暮れのわずかな光でそれらを見定めるのは、ひどく困難だった。  しかも、ベルタは、それを縫って自動馬車を走らせねばならない。  今は、ともかく逃げ切ることだ。  ベルタは、男の声を頭から振り払い、ふたつの目と、二本の操作棒を動かす腕に、全《すべ》ての神経を集中した。  どうやら、騎兵隊は、森のはずれでいったん追撃をゆるめたらしい。  馬群のまま、夜の森林に突入しては、余りにも危険だと判断したのだろう。  しかし、与えられた猶予が、それほど長いものであるとは思えなかった。  彼等はすぐにも陣形を変え、あるいは徒歩ででも、この森へ踏み入ってくることだろう。  それまでに、どれだけ森の奥深くまで逃れることができるか……  しかし、そろそろ、自動馬車での前進は不可能になりつつあった。  闇《やみ》よりも以上に、樹林がますます濃くなってきたからだ。  信じられないような巨木が、まるで身を寄せあうように立ちはだかり、それをやっと迂回《うかい》すると、今度は、つた類の群生に突っ込むという具合だ。  鉄の馬たちも、とうとう酷使に耐えかねたのか、不機嫌《ふきげん》で不規則ないななきをはじめており、それにつれて、彼等の出す力も、がっくりと落ちてきていた。  ベルタも、ついに、あきらめた。  大木をよけそこねて、自動馬車がよろよろとそれにぶつかったのを潮時に、ベルタは、操作棒を手前に引き切り、車をとめた。  と同時に鉄の馬たちも、せき込むように二、三度|唸《うな》り声をあげたなり、そのまま静かになってしまった。 「……まさか……こんなことが……」  我に返ったベルタに、弱々しいつぶやきが聞こえてきた。  彼は慌《あわ》てて振り向き、後の荷台を手探りした。  と、生暖かいものでべっとりと濡《ぬ》れた男の上半身が、掌《て》に触れた。 「……な、なんてことだ……トルタンのサバともあろうものが……あんな蛮人の手にかかるとは……」  男はつぶやき続けている。 「サバさん……どこをやられたんです?」  ベルタは、はじめてその男の名を呼んだ。 「……うっ、くそ……腹だ……あいつめ、剣を、わしに投げつけてきおった……よけきれなかった……」  男の声が、その激しい苦痛をはっきりと教えていた。 「……どうなるんだ、このわたしは……まさか……こんなところで死ぬんじゃないだろうな……いや、そんな馬鹿《ばか》なことがあるものか……嘘《うそ》だ……こいつは、夢だ……トルタンのサバ・トルテンべルが……こんな蛮人の国で、誰《だれ》にも知られずに死んでゆくなんて……そんなことが許されるはずがない……そうさ……こいつは夢だ……そうだったんだ……ああ、嫌《いや》だ……早く、わたしを目覚めさせてくれ……お願いだ……苦しい……死にそうだ……早く、早く、わたしを目覚めさせてくれ……そうだ、早く、早く……」  声が消えた。  ベルタは、男の身体から手を離した。  もう、あたりは、何も見えない。  真の闇《やみ》の中で、ベルタは、ただひとり、取り残された。  第十四話 樹海の怪物  歩き続けて、もう十日近く経っていると思われた。  時間の感覚はとうに失われている。  日が出れば歩き出し、また日が沈めば、草の陰に身を隠して眠った。  追っ手の気配は、ついに一度も迫ってこなかった。  最初は、それを喜んだベルタも、自分のさ迷い込んだ場所が、とてつもない樹海であることを知るにつれ、今後はかえって、自分から彼等に捕らわれたいとまで願うようになっていた。  そうでもしないかぎり、この緑色の迷路からは、どうやっても脱出できそうになかったからだ。  木立ちを通して洩《も》れてくる日の光で、方角だけは、かろうじて判断できるつもりだった。  しかし、彼が西と信じる方角へいくら進んでも、森は切れない。それどころか、木々の密度は、ますますその濃さを増してくるようにさえ思われた。  幸い、空腹と乾きの心配だけはなかった。  清浄な湧《わ》き水がいたるところにあり、また食用になる果実や、木の芽、草の根などを、苦労なく手に入れることができた。  それに、トルタンの男が荷台に積んでいた酒や乾肉もまだ残っていた。  寒さや不安で眼れぬ夜など、ベルタは酒をひと口、口に含み、そのぬくもりで身体を休めた。  男の死体は、自動馬車のそばに埋葬してきた。  食料の他にも、ベルタは男の荷物の中から、衣類や毛布、それに若干の金貨などを持ち出していた。  それで心が痛まないわけではなかったが、ともかく、今、これから生きのびねばならないのは、ベルタ一人《ひとり》なのだ。彼は自分にそう言いきかせ、役立ちそうなもの全てを、大きな袋につめこんできた。  それを担《かつ》いで、ベルタは今日も歩き出した。  目指すのは、やはり西。  昨夜、彼は、その方角から、これまで聞いたこともない、不気味な重々しい物音が響いてくるのを耳にしていた。  この森に入ったばかりの彼であれば、すぐにそれを危険と結びつけて、逆に避けるところだが、今の彼は、どんなものでもいい、この単調な緑の連なり以外のものと出会いたい気持ちになっていた。  その物音は、ついさっきも、木立ちと地面を微《かす》かに震わせて、ここまで届いてきた。  正体は見当もつかない。  だが、物音がするからには、必ず、その源に何かがあるはずだった。  なんであれ、それを確かめるしかない。  下生《したば》えをかき分け、かき分け、ベルタは進んだ。  と、いきなり視界が開けた。  ベルタは目を見張った。  道だ。街道のようだ。  それが、森林をまっぷたつに断ち切って、左右の方向にのびている。 (いや、待て!)  駆け出しそうになる自分を、ベルタは必死で抑えた。  どうも、おかしい。  これは、ただの道ではない。  ベルタは、木の陰に半身を隠したまま、それを観察した。  確かに、それは、道のように見えた。  一面に、厚く、砂利が敷いてある。  それだけなら、別に不審はない。  だが、道に敷かれているのは、その砂利ばかりではなかった。  その砂利の中に、大きな石がずらりと規則正しく寝かせてあり、さらにその上に、鉄製と見える二本の棒が、長く長く、見渡すかぎり彼方《かなた》までかけ渡されているのである。 (なんだ……これは……)  ベルタは、我が目を疑った。  それがいかなる目的のものなのか、どうやっても想像すらできない。  ともかくも、一歩、踏み出そうとしたその時——  また、あの物音が、どこからともなく響いてきた。  ベルタは再び、草の中に身を潜めた。  どうやら、物音は、その鉄の道のはるか先から聞こえてくるらしい。  しかし、急速にこちらへ近付いてくる。音がどんどん大きくなる。  まるで、巨大な怪獣の息づかいのようだ。いや、確かに、それは荒々しい息づかいだ。  と、見えた。  白い煙を空に向けて激しく吐き上げる姿が、まず目に入った。  黒い。しかも、巨大だ。その頭から、煙を吐き出している。怪物だ。まぎれもない怪物だった。  ベルタの腰から、いっぺんに力が抜けた。  彼は為《な》す術《すべ》もなくその場にペタリと尻《しり》を落とした。  怪物は、その二本の鉄棒伝いに、ぐんぐんこちらへやってくる。  地面が音をたてて震え出した。  すさまじい轟音《ごうおん》だ。  ベルタは両手で、自分の耳を覆った。その瞬間、怪物が短く吼《ほ》えた。  その一声で、ベルタの胆《きも》は完全につぶれた。  グワァーッ!  ボッ、ボッ、ボッ、ボッ……  怪物が目の前までやってきた。  もう、何がなんだか分からない。  目を開いているのが精一杯の勇気だ。  怪物は蛇《へび》のように長い。その巨体が地響きをたてて、ベルタの眼前を通り過ぎてゆく。  しかし、その時彼は、ちらりと、その怪物の一部に、数人の男たちがしがみついているのを見た。 (…………!)  ベルタは思わず、悲鳴を洩《も》らした。  しかし、その声も、怪物がたてる途轍《とてつ》もない轟音《ごうおん》にかき消された。  やっと、怪物の尾部が見えてきた。  そして、それは、やって来た時と同じ、乱れを知らぬ圧倒的な足取りで、道の彼方《かなた》へと去っていった。  その物音が消え去ってもなお、ベルタはその場所にへたりこんでいた。  余りにも、それは強烈すぎた。  彼の心が、その目撃したものを受け入れるまで、実に、長い、長い時間が必要だった。  彼は幾度も、眼前に展開されたその光景を心の中で反復した。  そして、徐々《じよじよ》に、そのものの正体へと思いをめぐらしていった。  鉄の道……その上を走る黒い怪物……白く吐き出される息……咆哮《ほうこう》……そして、それにしがみついていた人間たち……  啓示は、唐突《とうとつ》に訪れた。 (あれは……自動馬車だ!)  ベルタは、自分の考えに驚きながら、なおも、その考えにすがりついた。 (そうだ! あれは、巨大な、巨大な自動馬車なんだ!)  ベルタは、心の中で叫んだ。  そう考えてみると、怪物の腹の下には、確かに、回転する車輪のようなものがついていたようにも思えてくる。  それに、あの轟音《ごうおん》……それは、トルタンの男が乗っていた馬なしの馬車の音を、幾百倍、幾千倍にも拡大したものではなかったか。 (あの巨大な自動馬車を操るには、きっと、二本の短い棒だけでは足りないんだ。だから、あんなに長い鉄の棒が、どこまでもどこまでも敷かれているんだ!)  ベルタは、自分の思いつきに興奮しはじめた。 (ならば……あの自動馬車に乗れば……どこか、人間たちの住む町まで行けるということだ!)  その行き先は、少なくとも、あの無名王の都ではない。  それは確かだ。  あの都では、馬や牛の引かない馬車など、空想の物語の中にすら語られてはいなかった。 (脱出できる……逃げのびられる!)  堰《せき》を切ったように、気力と体力がよみがえってきた。  ベルタは立ち上がった。  荷物の袋を背に負い、叢《くさむら》から歩み出る。  そして、二本の鉄路に近付きながら、あたりを見回した。  と、その砂利を敷きつめた道のわきに、一本の大きな朽木《くちき》が横倒しになっているのが見えた。  ベルタは、それと、鉄路との距離を目で確かめてから、朽木の陰にうずくまった。  ここであの黒い怪物を待ち構えることにしたのだ。  そして、なんとしてでも、それに飛び乗る決心だ。  あれが自動馬車などではなく、本物の怪物かもしれない、という不安も拭《ぬぐ》い切れないが、だとしても、この森の中を一人いつまでもさ迷い続けるよりはましだ、と自分に言いきかせた。  それでも、大胆過ぎる決意をなかなか容認したがらない筋肉が、激しく痙攣《けいれん》に似た震えを繰り返した。  それを静めるために、ベルタは、三度も、酒壷《さかつぼ》を口に運ばなくてはならなかった。  そして、待った。  待ち続けた。  日が暮れてきた。  緊張と寒気で、手足がすっかりこわばっていた。  しかし、ついに、待ち続けたものの気配が、鉄路を伝ってやってきた。  音は、左手から近付いてくる。  つまり、それは、北西を目指して進んでいるわけだ。  朽木《くちき》の陰から目だけを突き出して、ベルタは身構えた。  暮れなずむ空に吹き上げられる灰色の煙と、それに混じる火の粉が見えてきたのは、それからしばらく後のことだ。  続いて、怪物の、何ものにも頓着《とんじやく》せぬ圧倒的な巨体が、樹海の向こうから姿を現わした。  その轟音《ごうおん》を耳にした途端、また新たな恐怖が胸元に衝《つ》き上げてきた。  しかし、ベルタはそれを必死で呑《の》み下した。  地面が上下に大きく揺れる。  怪物はみるみる近付いてくる。 (あるぞ! 車輪だ)  ベルタは、それを認めた。 (自動馬車だ! やはり、あれは、巨大な自動馬車なんだ!)  ブオ—————ッ!  それが、吼《ほ》えた——  ボッ、ボッ、ボッ、ボッ……  ボッ、ボッ、ボッ、ボッ……  ブオ——ッ!  怪物の頭部が、ベルタの目の前を走り過ぎた。  今度は、それをにらみつけ、しっかり観察する余裕があった。  黒い奇怪な鉄のかたまりだ。後部には、小さな窓がある。その奥に、うすぼんやりと白っぽい影が動いていた。  一瞬で、それは目の前を横切って過ぎた。  しかし、まちがいない。それは、人間の顔だ。人間が、中に乗っているのだ。  確信が強まった。  ベルタは跳《は》ね起きた。そして、駆け出した。  その横を、怪物の胴体が走り抜けてゆく。  いや、怪物ではない。自動馬車だ。自動馬車の黒い荷台だ。その周囲には、手すりや踏み板もめぐらしてある。  ベルタは手をのばした。  それが、荷台の枠を掴《つか》んだ。  腕がもぎとられそうだ。ベルタは、その一本の腕で、自分の身体を支え、思いきって地面を蹴《け》った。  夢中で両足をばたつかせる。その片方が、踏み板にかかった。  ベルタは大きく息をつき、その勢いで、荷台の中に転がり込んだ。  ブオ———————ッ!  怪物が、また、長く吼《ほ》えた。  そして、闇《やみ》の奥へ、未知の彼方《かなた》へと驀進《ばくしん》してゆくのだった。  第十五話 青い平原  怪物は息を切らしていた。  自らの巨体を持て余して、喘《あえ》ぎ、吼《ほ》え、時にはのたうつように身震いしながら、それでも執念に似た着実さで、急坂を這《は》い登ってゆく。  死んだサバ・トルテンベルの言葉から類推するなら、この黒い怪物の、重々しく張り出したとてつもない腹の中には、それこそ何十、いや、何百、何千頭もの小さな鉄の馬が隠されているはずであった。  それらすさまじい馬群が、どのように軛《くびき》につながれ、駆り立てられているのかは、余りに想像を絶する。  ただ、打ち続く轟音《ごうおん》と震動を通して、その切迫したいななき、火のような息、鉄の胸と鉄の筋肉のせめぎあいが、ベルタにははっきりと感じ取れるような気がした。  夜はとうに明け切っていた。  だが、怪物の頭部から、せわしない呼気とともに濛々《もうもう》と吐き出される黒煙が、しばしば日の光を覆い隠して、ベルタをかりそめの闇《やみ》で包んだ。  それは熱せられ、汚れていた。  ベルタの手足、それに恐らくは顔面も、その煤《すす》にまみれていた。  それでもベルタは、身動きひとつできないまま、怪物の牽《ひ》く荷台の底にへばりついていなくてはならなかった。  怪物に対する畏怖《いふ》と、それに抵抗しようとする心のはざまで、ベルタの身体は、金縛《かなしば》りにあったように、自由を奪われていたのである。  今や、怪物の苦悶《くもん》は、彼の苦悶でもあった。  ベルタは息を荒らげ、激しい動悸《どうき》に耐えながら、ひたすら旅の終わりが早く訪れてくれることだけを祈り続けた。  と、また、怪物が金切り声を上げた。  もう、一度。  それが、長い、長い吐息のように続く。  次の瞬間、ガタンと波打つような震動がきた。  と思った途端、急に、怪物の息遣いが軽くなった。  ヴォッ、ヴォッ、ヴォッ、ヴオッ……  ヴォッ、ヴォッ、ヴォッ、ヴォッ……  同時にそれは、自信にあふれた、規則正しいものに変わりはじめた。  速度が、ぐんぐん増してきた。  ヴォーッ!  ヴォ————ッ!  怪物が、二度、歓声をあたりに響かせた。  ついに、その巨体は、急坂を登り終えたのだ。  そして、峠《とうげ》を越え、針路を大きく右に変えた。  今度は、山肌《やまはだ》をえぐるような急角度で、下界へと駆け降りはじめる。  どうやら、視界が大きく開けてきたようだ。  ベルタもやっと我に返った。  にじるように動いて、荷台の端に手をかけた。  ゆっくり、ふたつの目だけを、そこからのぞかせる。 (…………!)  声にならない悲鳴が、ベルタの喉《のど》からほとばしった。  驚愕《きようがく》の余り、目の前が一瞬暗くなった。  その光景——  緑色、もしくは茶の大地が見渡せるとばかり思ってのぞきこんだ山裾《やますそ》の方角には、なんと、ただひたすらに青い、青くどこまでも続く拡《ひろ》がりだけがあったのだ。 (…………!)  ベルタはわななき、思わず後へ倒れ込んだ。  今自分で目にしたものが、どうしても信じられない。  あれはいったい、なんだったのか。  気を静めるまでには、かなりの時間がかかった。  怪物と、それに牽《ひ》かれた荷台の列は、ベルタの混乱などおかまいなしに、なおも行足を早めた。その青い連なりの世界へ向けて、轟々《ごうごう》と下ってゆく。  ようやく、ベルタも放心から醒《さ》めた。  意を決し、再び、怖《おそ》る怖る荷台の横板に手をのばした。  そして、その陰から、思い切って顔を突き出した。 (青い……)  青い平原だった。  それが、くねるように大地を絶ち切ってその先、果てしなくベルタの視界を埋めつくしているのだ。  しばらくは、どんな考えも頭に浮かんでこなかった。  だがやがて……彼の意識は、なんとか見慣れた、理解し得る光景を求めて、視線を左右上下にさまよわせはじめた。  それは、見つかった。  怪物が一直線に下ってゆくその先…… (町だ!)  それも、かなりの規模を持つ都市であるらしい。  しかし、生まれてこの方、無名王の都以外に町らしい大きな町を見たことのないベルタにとっては、それは、相当に奇異の念を覚えさせる光景だった。  なによりも、まず、町の中核を成すべき王城の姿がない。それが驚きだった。  家並みは多彩だ。  背の高い塔が、町のあちこちにあって、天を指差している。  家々の外壁は、ほとんどが純白に塗られていた。それが南からの陽光を受け、町全体を、まばゆいほどに輝かせていた。  にぎやかで、陽気で、あっけらかんとした空気が、そこから発散されているようにベルタは感じた。  それは、荘重《そうちよう》だが威圧的な、巨大だが自閉的な、熱気はあってもそれが混沌《こんとん》に通じるようなあの無名王の都と、余りにも著しい対照を成しているように思われた。  今眼下に見下ろされる町並みは、あくまでも軽やかで、しかもある種のまぎれもない美と調和を保っている。  そして、ゆるやかに下る斜面全体を、それはすき間なく埋めつくしていた。  だが……  ベルタは再び、めまいを覚えた。  その町が下ってゆく先——そこはやはり、あの青い広がりによって、半円形に絶ち切られてしまっていた。 (…………!)  ベルタは、瞬《まばた》きした。  もう、一度。  唐突《とうとつ》に、ある考えが脳裡《のうり》をかすめた。 (水だ……)  自分の思いつきが、しばらくは信じられなかった。  だが、目を凝《こ》らせば凝らすほど、それは確かなことのように感じられてくる。  ベルタは、川と小さな池を見たことがあった。  眼下の光景は、どちらかと言えば池に似ていた。それを、何百倍、何千倍にも拡大できるなら、あるいは、このような地形を想像できなくもない。  しかし、いったい、この世の中に、これだけ莫大《ばくだい》な量の水が果たして存在し得るものだろうか。  もし、これらの水が、何かの拍子でぐらりと周囲にこぼれたなら、地上の町々などひとたまりもなく、その下に没してしまうことだろう。  それを思うと、また、恐怖で全身がすくんだ。 (なんという世界へ連れて来られてしまったんだろう……)  荷台の横板を握る指はすっかり血の気を失い、固くこわばっていた。だがベルタは、それを引きはがすこともできず、ただ、怪物の下降につれて眼下からせり上がってくる青い世界の圧迫感に耐えるしかなかった。  ブオ—————ッ!  怪物が上機嫌《じようきげん》で、高らかに叫んだ。  と、一瞬で、視界が闇《やみ》に包まれた。 (洞穴《ほらあな》だ……)  すでに、ここへ着くまでに二度ほど、同じような長い穴を抜けていた。  だから、ベルタもそれには驚かない。  かえって、その暗黒が、彼に落ち着きをもたらしてくれた。  もはや、町は目の前だ。  この怪物が、やがてそこへ走り込んでゆくであろうことは間違いなかった。  そして、どうなるのか。  彼はどうすればいいのか。  それに思いをめぐらす余裕ができた。  とにかく、頃合いを見はからって、この怪物が牽《ひ》く荷台から脱出するのが先決だ。  町にもぐりこめさえすれば、きっとなんとかなる。今は、そう信じるしかない。  サバ・トルテンベルの遺品から持ち出してきたものの中には、金貨もまじっていた。  刻まれている図案は見慣れないが、大きさはかなりのものだ。  通用しないとは思えない。  食べ物と衣類を手に入れるには、一枚で十分すぎるはずだ。  他に、銀貨や銅貨もあった。形はまちまちで、中にはメダルのようなものもまじっていたが、その内どれかはこの町でも使えるだろう。  考えている内に、怪物は洞穴《ほらあな》を出た。  陽光で目がくらんだ。  穴を通り抜けている間に、ずいぶんと低地まで下ったようだ。  両側間近に、白壁の建物が迫っている。  それらにさえぎられて、あの途方もない水たまり、青の拡がりは目に入らなくなっていた。 (人だ!)  一瞬、彼の目の隅《すみ》を、人影が飛び過ぎた。  町の住民たちに違いない。  この怪物馬車の御車台に人間らしきものがしがみついているのを、星明かりでちらりと認めたのを除けば、密林に逃げ込み、トルテンベルを埋葬して以来、はじめて見る人間の顔である。  やっと人里に辿《たど》り着いたという実感で、胸がふくらんだ。  しかし、本能的な警戒心もまた、急速に張りつめてくる。  なんといってもここは、ベルタにとって、見も知らぬ異世界なのである。  怪物が、短く吼《ほ》えた。全身を軋《きし》らせ、大きく左に回り込む。  ついで、ガタン、ガタンと激しい震動がきた。  どうやら行足を落としはじめたようだ。  すでに、周囲の景色は、完全な町中のそれに変わってしまっていた。  そこここに立ち止まり、あるいは手を振って、怪物を見送る人の群も、それにつれて、さらにふくらんでいた。  とても、荷台から跳《と》び出せる状況ではない。  今しばらくは、このまま身を潜めて、機会をうかがうしかなさそうだ。  ベルタは目ばかりをぎらぎら光らせ、全身を緊張させ、床にうずくまった。  と、怪物の足元から、甲高《かんだか》い悲鳴が上がった。  震動がさらに高まり、速度が急速に落ちてきた。  そしてついに、深い、大きなため息のような音を洩らして、怪物は停止した。  と思う間もなく、あたりから、人々のざわめきが押し寄せてくるのが感じられた。  鉄と鉄のぶつかり合う音、声高に呼び交わす声、さらに小さな自動馬車のものと思える騒音が交錯《こうさく》する。  それらがいっしょくたになって、やっと怪物の轟音《ごうおん》から解放されたベルタの頭の中に流れ込み、反響した。  その時になってはじめて、ベルタは、とてつもない自分の疲労に気がついた。  頭の芯《しん》がどうしようもないほど痺《しび》れてくる。  思えば、密林の放浪に続く、この冒険行である。  精も根も、とうにつき果てていておかしくない。  しかも、今は、ここを動こうにも動けない。  そうしてひざを抱き、身を縮めていると、つい、目蓋《まぶた》がふさがってくる。  その度に、はっと気を取り直して正気を保とうとするが、意識はますます混濁してくる。  夢とうつつの区別が難しくなる。  そして……  第十六話 終着都市  いきなり、乱暴にわき腹を小突かれた。  続いて、尻《しり》を蹴《け》り上げられた。  痛みよりも何よりも、余りの唐突《とうとつ》さに神経が恐慌《きようこう》をきたし、ベルタは手足を闇雲《やみくも》にばたつかせた。  そこを、また、したたかに蹴りつけられた。  目覚めたばかりの感覚が、その激痛をベルタの脳天まで突き上げた。 「おい、小僧《こぞう》! 起きるんだ、立て!」  わめき声を上げ、這《は》いつくばったベルタの頭上から、荒々しい命令が浴びせられた。 「……くく……」  呻《うめ》きながら、やっとのことで首だけ起こしたベルタの目に、まず映ったのは頑丈《がんじよう》そうな革の長靴《ちようか》だった。 「言葉が分からんのか、この野蛮人め!」  また蹴りつけるつもりらしく、その革靴《かわぐつ》が後に引かれた。  ベルタは、慌《あわ》てて跳《は》ね起きた。  そのままぺたりと尻《しり》もちをつき、見上げた。  赤ら顔の大男が、そこに立っていた。 「どこから来た!? クエラか、それともヒルビル砂漠《さばく》か?」  男は口髭《くちひげ》を歪《ゆが》めて、ベルタをにらみつけた。  頭に、ひさしのついた円筒形の帽子をのせている。  上着には、襟元《えりもと》から裾《すそ》まで、ずらりと金色のボタンが並んでいた。  見たこともない、奇妙な形状のものを腰からぶら下げている。男は片手で、しきりにその把手《とつて》らしき部分を撫《な》ぜ回している。用途は分からぬが、何か武器の一種に違いない。  しかし、男がもう一方の手に握っている黒光りする棒の方は、何をするためのものか、はっきりしていた。 「さあ、さっさと答えるんだ! どこから来た、え? どこで、汽車に乗り込んだか訊《き》いているんだ!」  男は威嚇《いかく》するように、その重たげな棒を振り上げた。 (汽車、だって?)  この怪物の名前だろうか?  だが、どう答えてよいか分からず、ただ打擲《ちようちやく》を恐れて、ベルタは頭をかかえ込んだ。 「ようし、それなら、ゆっくり料理してやるか。立て!」  棒の先が、ぐりぐりとベルタの首の根元にねじ込まれた。  余りの苦痛に、ベルタは思わず、その棒にしがみついた。 「こいつ、抵抗するのか!?」  また、蹴《け》られた。  横倒しになった所へ、今度は、全く容赦《ようしや》を知らぬ棒の一撃が振り下ろされてきた。  息がとまる。悲鳴も上げられずに、ベルタはのたうち回った。 「立て!」  とても身体《からだ》を起こすどころではないが、かといって、その言葉に従わなければ、その場で殺されかねない。  男の暴力には、手加減といったものが、一切感じられなかった。  ベルタは、死にもの狂いで荷台のヘリにすがり、足を踏みしめた。 「下りろ!」  背中を嫌《いや》というほどどやしつけられ、その拍子に、ベルタは荷台から地面に転げ落ちた。  石畳に頭を打ちつける。  一瞬、気を失いかけるが、男があとから跳《と》び下りてくるのを見て、必死でまた立ち上がった。  そして、罵声《ばせい》と棒に追いたてられ、歩き出した。 「おい、その汚ならしい奴《やつ》は、なんだ!」 「ひでえ臭《にお》いを立ててやがる。どこの野蛮人だ?」  よろめき進むベルタの回りに、人垣《ひとがき》ができた。  彼を追い立てている男と同じ服装の者も多い。  彼等もやはり、手に手に同じような凶々《まがまが》しい棒を握っている。  それにおびえて、ベルタは足をひきずる速度を早めた。  だが、その動きが、また男を怒らせてしまった。 「こら! 逃げる気か——!?」  後頭部を殴りつけられた。  目の前が暗くなったが、かろうじて踏みこたえた。  ここで倒れたら、二度と起き上がる機会は与えられないだろう、そんな予感があった。  男がさっき汽車と呼んだ、あの怪物を導く二本の鉄路に沿って、ベルタはなおも歩かされた。  粗末な小屋のわきまで連れてこられた。 「よし! さあ、そいつを全部脱げ!」  ベルタの目の前に仁王立ちになって、男が命じた。 「早くしろ! その臭いボロを脱ぐんだ!」  十日以上にわたって密林の中をさまよい歩いていたベルタの全身は、まさに汚物まみれの状態だった。  自分では鈍感になっているが、恐らく、相当な悪臭を放っていることだろう。  仕方なく、のろのろと、まず腰帯を解いた。  そこに結びつけてある、金貨などを収めた袋を別にして足元に置き、それから、順番に着ているものを身体からはぎ取っていった。  殴られた跡が、生々しくアザになったり、脹《ふく》れ上がったりしている。 「そいつもだ。こいつ、女みたいに恥ずかしがってやがる! それとも、きさま、女か!?」  腰を覆う布だけを残したベルタを、男が嘲弄《ちようろう》した。  そして、ついと棒をのばし、ベルタの股間《こかん》に突きを入れてきた。  避けるヒマもなく、もろに急所をやられて、たまらず彼は地面に崩折《くずお》れた。 「そうらみろ、やっぱり男じゃねえか。ぐずぐずするな! 早く、素っ裸になれ」  周囲で、どっと笑い声が上がった。  余りの痛みにしばらくは呼吸も満足にできない。  しかし、ちょっとでもためらっていれば、それ以上に痛めつけられるのは分かりきっていた。  慌《あわ》てて自分から腰の布をむしり取る。  途端、横から冷水を浴びせられた。  心臓が縮み上がる。 「そうら、身体《からだ》をきれいにしてやる。ありがたく思えよ」  男の声だ。  飛沫《ひまつ》を通してそちらを見ると、男が管のようなものをベルタに向けている。  その先端から、水が絶え間なくベルタめがけて噴き出してくる。  叩《たた》きつけるように強い水流だ。筋肉が収縮してきりきりと痛んだ。  それ以上に快感もあった。  汗と泥《どろ》が、みるみる洗い流されてゆく。  冷たさはすぐに感じなくなった。  逆に、生気のようなものが身体の芯《しん》から湧《わ》き出してくるのが感じられた。  ベルタは両手を忙しく動かし、髪の毛から顔、胸、腰、両足と、そこにこびりついた垢《あか》をこすり落とした。  さらに、大口を開き、乾ききった喉《のど》をうるおした。 「おい、見ろよ。ほんのガキだと思ったが、どうして、立派な大人《おとな》だぜ!」 「さあ、きれいになったところで、蛮人の裸踊りでも見せてくれ!」  見物人たちが、口々にはやしたてた。  筒を持つ男も、面白半分それを振り回し、水流の鞭《むち》で、ベルタの身体のあちこちを打ったり突いたりして笑い声をあげる。  だが、どんなからかいを受けようと、今のベルタは、その水浴がうれしかった。  殴られ蹴《け》られた痛みまでが、洗い流されてゆくような気がした。  と、突然、見守る男たちの間から、ざわめきが起こった。  我を忘れて水流に身をさらしていたベルタは、最初、それに気がつかなかった。  が、直後、筒の水が急にとめられて、ようやく周囲の様子が変化したことを悟った。 「おい、百ギリア金貨だぜ!」  叫び声が聞こえた。  慌《あわ》てて、髪の毛からしたたる水滴を拭《ぬぐ》い、ベルタはあたりの男たちを見回した。  彼等の視線は、今や、ベルタではなく、その足元に釘《くぎ》づけになっている。 (あ!……)  そこにぶちまけられているのは、ベルタの所持品だった。  袋が破れてしまっている。  筒先から浴びせられた強い水流のせいに違いない。  おずおずとしゃがみ込みながら、ベルタは男たちの表情を盗み見た。  そして、彼等の目に宿る疑惑の色と貪欲《どんよく》な光に気付いて、ベルタは背筋を激しく震わせた。  何かが起ころうとしている。  だが、何が起こるのか、彼には見当もつかなかった。 「……まちがいないぜ。あれば百ギリアだ。それに二ギリア銀貨もある……」  誰《だれ》かがつぶやくのが聞こえた。 「どうして、東から来た野蛮人が、こんな高額のギリアを持ってるんだ?」 「おかしいぜ……それに、おい! あれは、トルタンの紋章板じゃないか!」  ひとりが、そう叫んで人垣《ひとがき》から進み出た。  それにつられて、どっと男たちの輪が縮まった。  その中から、何本もの手がのびてきた。 「おい! こら! 勝手に触《さわ》るんじゃない。こいつは、俺《おれ》の獲物《えもの》だ!」  ベルタをここまで連行した男が、大慌てで棒を突き出し、彼等をさえぎった。 「おまえのもんだと? そんな、馬鹿《ばか》な! ここにいるみんなが、いっしょに、これを見つけたんだ。そうだろう、みんな?」  誰かが大声でそう叫んだ。  そうだ、そうだ、と一斉に男たちが応じる。 「な、何を言うか! そういう意味じゃない。これは少なくとも、我々鉄道管理者の責任においてだな……」  言い合いがはじまった。 「待て、待て、つまらんケンカはやめろ!」  年嵩《としかさ》のひとりが、両手で男たちを制しながら進み出た。  そして、ベルタのかたわらにしゃがみ込んだ。 「この金には、ちゃんとした持ち主がいるはずだ。ほら……これは確かに紋章板だ。これを見れば、この小僧《こぞう》が、誰《だれ》から金貨を盗んだのか、すぐに……」  他の硬貨とはちょっと違う金属板をひろい上げて、男は泥《どろ》をぬぐった。  それに目を近付けた。 「……トルタン市とある……やはり、この町の誰かのものだ……なになに?……市会評議員……サバ・トルテンべル……」 「トルテンベルだと——?」 「行方不明の、トルテンベルか!?」 「東へ出掛けたまま、もどらない、あの評議員殿!」 「……トルテンベル!」 「サバ・トルテンベル譲員!」  騒然たる空気が、そのまますさまじい殺気に変わるまで、そう長い時間はかからなかった。 「この、山賊《さんぞく》野郎!」  たちまち、ベルタの両腕がねじり上げられた。  あちこちからこぶしが飛んできた。  全裸のままの彼は、いいように小突き回され、打擲《ちようちやく》にさらされた。 「おい! まだ、殺しちゃ駄目《だめ》だ! 議員がどうなったのか、はっきり訊き出さなくちゃならん」 「そうだ、拷問《ごうもん》にかけるんだ!」 「よし!こいつを、詰め所まで連れて行こう」  人々の群が動き出した。  恐怖の余り、思わずベルタは声を張り上げた。 「違う! トルテンベルさんを殺したのは、俺《おれ》じゃない!」  それに応えたのは、すさまじい怒号だった。  第十七話 公平審判団 「……悲しいかな、疑うべき余地はすでに残されていない。サバ・トルテンベル議員は、もはや、この世の人ではない。そう信ずるしかない、と私は考えるものであります。さらに——」  立証官は言葉を切り、法廷をゆっくりと見回しながら、芝居がかった仕草で右のこぶしを宙に振り上げた。  そして振り下ろし、同時に叫んだ。 「さらに疑う余地なく、議員殺害の張本人こそは、こやつ、囚人13号に間違いない!」 「死刑だ!」  傍聴席《ぼうちようせき》から声が飛んだ。 「そうだ! 死刑しかないぞ!」 「死刑!」 「死刑だ!」  たちまち、いくつもの声がそれに和し、廷内は騒然たる空気に包まれた。 「静かに!」  威厳たっぷり彼等を制したのは、正面壇上に陣取る白髪の公平官だった。  彼は、いかめしい法衣をひと揺すりしてから、縄《なわ》で後ろ手にくくられ床に正座させられている囚人13号、即《すなわ》ちベルタを一瞥《いちべつ》し、今度は弁護官に向かって、反論をうながす合図を送った。  弁護官は中年の小男だった。  彼が、今回のこの仕事に何の熱意も持ちあわせていないのは明らかだった。  彼は単に、トルタン市の公平審判制度に基づく法手続き上の必要から、ベルタの弁護を命じられただけの人間だった。  ベルタが有罪になろうと無罪になろうと知ったことではない——  そんな感情が、彼の態度にはっきり表われていた。 「しかし、立証官殿——」  のろのろと立った弁護官は、まるで自分自身が罪人であるかのような暗い声で続けた。 「囚人13号は、トルテンベル議員の殺害容疑を、今もって強く否定しております。13号の証言によれば、議員は、東方蛮地で騎兵の群に襲われ、その戦闘中に……」 「そんなでまかせを、なぜ信じなくてはならんのです!?」  ここぞと、立証官が声を張り上げた。  彼の発言は許可を受けたものではなかったが、公平官も別段それをとがめようとはしなかった。  勢いづいて、立証官はまくしたてた。 「囚人13号が、議員の行方を問い質《ただ》した市民に対し、�殺したのは自分ではない!�と叫んだのを、居合わせた全員が耳にしている。まだ誰《だれ》一人《ひとり》、議員が死んだなどとは思ってもいなかったのに、そやつは思わず口走ってしまったというわけだ。お分かりかな——? 犯人でないなら、どうしてそんな言い訳が必要なのか!? そのひと言が全《すべ》てを証明してしまっている。そのひと言こそ、自白以外の何ものでもない——事実はすでに明白なはずだ!」 「そうだ!」 「その通りだ!」  傍聴人たちが、一斉に声を上げ彼に加勢した。 「弁護官」  公平官が、また彼を指名した。 「他に何か、言うことはないか?」  弁護官は傍聴席をちらりと見やってから、市民たちの反感を怖《おそ》れてであろう、首をすくめ、もぐもぐとよく聞き取れぬ声で、何事かつぶやいた。 「弁護官、もっと、はっきり!」  公平官の注意で、弁護官の声はさらに小さくなった。  が、今度は聞き取れた。 「……ありません」彼は言った。「審判をお願いします」  傍聴席がどっと湧《わ》いた。 「よろしい。では最後に、囚人13号、何か言いたいことはないか?」  ベルタの後にひかえていた廷吏《ていり》が縄《なわ》の端をぐいと引き、彼を立ち上がらせた。  ベルタの両脚は、とうに痺《しび》れ切っていた。  彼はよろめいた。  廷吏が力ずくで彼を立ち直らせた。 「さあ」  公平官がうながした。  が、今さら、何を言えばいいのか。何を言っても無駄《むだ》なことは、弁護官ならずとも充分に察せられた。  しかし、黙したままでいては、自分から罪を認めることになってしまう。 「俺《おれ》じゃない」低い声でベルタは言った。「トルテンベルさんを殺しちゃいない」 「殺さずに、強盗だけを働いたというのか——」  意地の悪い声で、立証官が口をはさんだ。 「しかし、そんな真似《まね》は不可能だ。誰《だれ》もが知っての通り、トルテンベル議員は、市で一、二を争う鞭《むち》使いの名手だった。その議員が、金品だけを強奪《ごうだつ》されるような不覚をとるはずがない」 「強奪じゃない!」  無意味と知りつつ、ベルタは言い返した。 「トルテンベルさんは、その時、もう死んでいたんだ!」 「そうらみろ! やっぱり、殺してから、奪ったんだな?」 「違う! 違うんだ!」 「よし、そこまで!」  公平官が、右手で、短い指揮杖《しきじよう》を振り上げた。 「これより審判を行なう。審判団は起立!」  二十人の市民有志からなる審判員たちが、ぞろぞろと立ち上がった。  男ばかりである。四、五十代が中心のようだ。一種の名誉職なのであろう、皆身なりは立派だ。  その彼等を眺《なが》め渡してから、公平官が言った。 「審判団の諸君、本件囚人13号の容疑に関する立証と弁護は以上の通りである。自己の理性と良心、そして判断力に照らし、囚人13号の有罪を確信する者は挙手願いたい。無罪もしくは立証不充分と思う者は、そのまま——よろしいかな? では、審判の結果を——!」  次々に右手が林立した。  審判員はそれぞれ一人一票ずつの裁決権を持っている。  それに対して公平官は一人で五票を有する。  合計で二十五票。過半数は十三票だから、つまり審判団が十二対八で一方の意見を支持したとしても、公平官の判断が異なればそれをくつがえせる。  それがトルタン市公平審判制度のしくみだった。  そして有罪か無罪かの審判が下された後、その票差を考慮しつつ、公平官が量刑を宣告する。  そうした�制度�の説明を、囚人13号ベルタも詳しく聞かされていた。この制度が、いかに良識的かつ公平なものであるかという説明を——  が、今——ずらりと天井に向け突き上げられた腕、腕、腕……の列を目の前にして、もはやいかなる救済の期待も空《むな》しかった。  公平官は挙手の数を確かめようともせず、すぐ審判団に対して着席を命じた。そして、言った。 「囚人13号を有罪と認め、判決を申し渡す。囚人13号の罪は、死をもって贖《あがな》うに相当するものである——以上。これにて、本件の審判を終了する」  廷内はざわめきに包まれた。  数人の獄吏《ごくり》がそのざわめきをかき分けるように入場し、ベルタを両脇《りようわき》から乱暴に引っ立てた。 「待ってくれ!」  たまらず、ベルタは叫んだ。 「俺《おれ》は何もしちゃいない、本当なんだ!」  が、それに応えたのは、獄吏の鉄拳《てつけん》だった。 「おとなしくしろ!」  一人が、ベルタの両手を縛《しば》っている縄《なわ》の端を、ぐいとねじり上げた。 「来るんだ」  そして、また頬を撲《なぐ》られた。  痛みでもう声もでない。  引きずられるように、ベルタは歩きだした。  と、そこへ、弁護官がついと近寄ってきた。 「13号、判決は聞いたね?」  妙に優しげな声で弁護官がささやいた。 「ああ、聞いたとも」  引き結んだ唇《くちびる》の間から、彼は唸《うな》り声に近い言葉を、赤い血といっしょに吐き出した。 「俺は死刑になるんだ。殺されるんだ」  悔しさで目がかすんだ。  訳も分からず捕らえられ、処刑にまで追い込まれたこの運命は、呪《のろ》っても呪いきれない。  もしどちらかの手が自由だったら、せめて一発、この弁護官にこぶしを見舞いたかった。  何が弁護官だ——! ベルタは胸の奥で毒づいた。が、獄吏の制裁を怖れ、口には出さなかった。ありとあらゆる気力が失《う》せかけていた。  運命から逃れられない以上、もう苦痛は沢山だった。  そのまま、ベルタは廷外へ押し出された。  その先に続いているのは、獄舎へ通じる狭い、暗い通路だった。  こうなったら、少しでも早く独房へ帰り着きたかった。そして独りきりになって……泣きたかった。  なのに——弁護官が、まだ後を追ってくる。  そして、さらに、ささやきかけてきた。 「13号、君は思い違いをしているぞ。今の判決を、君は感謝すべきなんだ」 「……感謝、だと?」  消え残っていた怒りの炎が、瞬間吹き上がった。 「何に——? 誰《だれ》に——? どうやって死刑を喜べばいいんだ!? ふざけるのもいい加減にしてくれ!」  が、弁護官は引き下がらない。 「だから、思い違いだというんだ。君は死刑じゃない。それよりも一等軽い判決を受けたんだ」 「軽い判決?」  思わず、ベルタは足をとめた。 「……そんな……いや、だって、公平官は確かに——」 「君を死刑にすると言ったかね?」 「……ああ……言った、はずだ……確か……」  立ちどまってしまったベルタを、しかし獄吏《ごくり》たちは追い立てようとしなかった。  薄ら笑いを浮かべ、やりとりにも口をはさまない。  とまどうベルタの様子を楽しもうというつもりらしい。 「�死をもって贖《あがな》うに相当する罪�だとは確かに宣告した——」  弁護官は貧弱な胸をそらし、ひと呼吸おいて、続けた。 「しかし、死刑に処すとは言わなかった」 「同じことじゃないか——!」 「いや、違うね。大いに、違う」  弁護官は鼻をうごめかした。 「どこが違うんだ?」 「�死をもって贖うに相当する罪�とは、つまり、囚人がどうなろうと、たとえ殺されるような目に遭《あ》おうと仕方のない罪、という意味だ。分かるかね!」 「…………」  ベルタは口をつぐんだ。分かるようで、分からない。  だったら、どうだというのか——?  弁護官が、にやりと口元を歪《ゆが》めた。 「13号、いいかね、よく聞くんだ。そして、考えるんだ。死刑を宣告されたら、その囚人は三日以内に処刑される。それが、きまりだ。死ぬしかない、というわけだ。が、�死に相当する罪�は、意味あいが違う。どう違うか……それは、君の運次第だ」 「…………」 「まあ、いい。いずれ、分かる。もしかすると、だ——いっそのこと死刑になっていた方がよかった、と私を恨《うら》むことになるかもしれない。そこまでは、知らんよ。しかし、ともかく、君を、ほぼ確定的だった死刑から救ってやったのは、この私だ。私が、公平官に話をつけておいたんだ。だから、君は死刑を免れた。なぜだと、思う?」  弁護官の声が、急に気味の悪い柔らかさを帯びた。 「……それは……」  言いながら、弁務官は、ベルタの耳にその唇《くちびる》を寄せてきた。  そして、湿った息と共に、ささやきをベルタに吹き込んだ。 「……それは、おまえが、とても綺麗《きれい》だからなのさ。だから、私は、おまえをもう少し長生きさせてやりたくなった……ふふ……そう……おまえは、もっと長生きした方がいい……そして、もっと、もっと、いろいろなことを知り、教えられる必要がある……そうとも……まだ、死なせるわけにはいかないさ……おまえは、もっと生きて、その綺麗な顔や身体《からだ》を、もっと、もっと汚すんだ、分かるか? だから、私は、おまえを助けた……」  弁護官の唇がベルタのうなじに触れた。  瞬間、彼の息遣いが急に早まった。  おぞましさに、ベルタの背中は震えた。が、ベルタはその唇から逃げなかった。逃げられなかった。  弁護官のからみつくような息と言葉が、ベルタの全身を麻痺《まひ》させていた。  弁護官は続けた。 「……おまえは、汚れ、傷つき、ついには腐りだす……きっと、そうなる……綺麗なままで終わるより、その方が、実はずっと美しい……私は、そんなおまえを想像する……夢に視《み》るんだ……その楽しみのために、私はおまえを助けてやった……おまえはもう、私の夢の中にいる……どこへも逃げられはしない……」 「…………」 「……覚えておくがいい、いいかね? おまえとは、もう二度と会うこともあるまい。だが、しかし、おまえがこの先どこへ流れていこうと、おまえはいつも私の夢の中に捕らえられているんだ……分かるか! そのことを覚えているがいい……」  弁護官の唇《くちびる》が、今度はベルタの耳に触れた。  舌の先を、ベルタは感じた。それが、ある、みだらな動きで、次の言葉を彼へ伝えた。 「……もう会うことはない……しかし、逃げられはしない……だから、最後にひとつだけ、私に教えてくれ、本当のことを、教えてくれ……あのトルテンベルとの間で、何があった? トルテンベルは、おまえに何をしようとした?……」  弁護官はベルタの耳から口を離すと、逆にベルタの口元に自分の耳を近付けてきた。  こっそり質問の答を聞こうというのだろう。  が、伝えるべき秘密は何もなかった。  ベルタは口の中につばをためた。それを弁護官の頬《ほお》に吐きかけてやりたかった。けれど、思いとどまった。  ともかくも……彼がベルタを死の運命からとりあえず遠ざけてくれたことは、どうやら真実のように思えた。  だとすれば、彼が急に気を変えて、それをもう一度引き寄せることもあり得るはずだ。  そのことを、ベルタは怖《おそ》れた。  嫌悪《けんお》感を死にもの狂いで噛《か》み殺し、ベルタはつぶやき返した。 「……何も……何もありませんでした……その前に、トルテンベルさんは死んでしまったんです……」  弁護官は、何事かを勝手に納得《なつとく》したらしい。  深く、二度うなずくと、やっと顔を離し、そして、うるんだようなまなざしで、ベルタを見つめた。 「よろしい。行きなさい、13号」  弁護官の目の隅に、いわく言い難い感情がからまりあい渦巻《うずま》いているのを、ベルタは見た。  と、弁護官は、いきなり、くるりと彼に背を向けた。  そして、そのまま、すたすたと通路の向こうへ引き返してゆく。 「ちっ、ケツの穴めが!」  弁護官が消えるのを待ちかねて、獄吏《ごくり》の一人が悪態をついた。 「おかしいと思ったぜ。くそっ、そういうわけだったのかい」 「そういうわけったって、おめえ、どういうわけか、分かったのかい?」  別の一人がまぜっ返した。 「ふん!」  茶化された獄吏は肩を揺すり、ベルタの背中を意味もなくどやしつけてから、言った。 「ま、確かに、死刑になっちまった方が、嫌《いや》な思いをせずに済むってこともあるものよ。嫌か、好きかは、こりゃ、分からんがね。くそったれ! さあ、歩いた、歩いた!」  ベルタは独房へもどされた。  そして、二日目の晩、�死をもって贖《あがな》うに相当する罪�に対して課せられた刑罰が何であるかを、ようやく知らされることとなったのである。  第十八話 船長モルケイン  男は長身だった。頑丈《がんじよう》な身体つきに比べて頭が小さく、きれいに剃《そ》り上げられた頬《ほお》はこけていた。  その夜——  パンと水だけの食事が終わってすぐ、独房の鍵《かぎ》ががちゃりとはずされた。  そして引き開けられた扉《とびら》の外に、看守頭《かんしゆがしら》とその男が立っていたのである。  男は、ひさしのついた黒い帽子をちょっと斜めにかぶっていた。その帽子には、金色に光る大きな徽章《きしよう》がついていた。 「船長——」  看守頭は、男のことをそう呼んだ。 「こやつが、13号であります」  男は、床にうずくまったままのベルタをじろりとひとにらみしてから、看守頭の方に向き直った。 「力は、あるか?」 「そりゃあ、もう」  看守頭は大きくうなずいた。 「力がなくっちゃあ、人は殺せませんよ」 「なるほど……」  男は再び視線をベルタにもどし、片手で自分の顎《あご》のあたりを二度、三度と撫《な》でさすった。そして、言った。 「よし、買おう」 「ありがとうございます、船長」  看守頭は満面に笑みを浮かべ、両手をこすりあわせながら頭を下げた。 「——して、いかほどでお買い上げいただけましょう?」 「そうだな、ふん……二十ギリアで、どうだ?」 「それは、船長、いくらなんでも——」看守頭は大げさに渋面を作った。「せめて、四十ギリアはいただきたいところで——」 「二十に、五加えよう」 「二十五じゃあ、今時羊一頭だって買えやしませんよ」 「羊なら、乳も出すし、肉も食える。しかし、人間を食うわけにはいかん。逆に食わせにゃならん。二十と七だ。それ以上は、出せん」 「なんとも、いやはや——」  看守頭は、首を振り、垂れ下がった頬《ほお》の肉をぶるぶると震わせた。 「船長殿には、いつもやられてばかりだ。仕方がない。二十と七ギリアでお譲りしましょう」 「よし、決まった」  船長と呼ばれたその男は、帽子のひさしに手をやり、それを深くかぶり直してから、つけ加えた。 「明日の早朝、出帆準備がはじまる前に、二十七ギリアを用意して受け取りにこよう。それまでに、腹いっぱい食わせて元気をつけておいてくれ。船に上がったら、メシの時間など作ってはやれんからな」 「まったく、何をおっしゃるやら。この獄舎《ごくしや》では、いつだって、囚人にひもじい思いをさせたりしちゃいませんよ」 「そいつは、どうかな?」 「それと、ひとつ——船長、さっきも申しましたように、こやつは死刑相当囚ですので、生きては二度と、このトルタンの土を踏ませてならぬと法に決められております。そのことを、くれぐれもお忘れなきよう」 「承知している。生きては二度と、この土地へ連れもどさぬと誓おう」 「では、明朝、お待ちしております——」  独房の扉《とびら》が、がちゃんと閉じられた。  看守頭と男の足音が遠ざかり、それきり何も聞こえなくなった。  終始——ベルタに対しては何の説明もありはしなかった。  けれど、二人のやりとりから、およその事情は見当がついた。  つまり、ベルタは売られたのだ。  処刑の免除と引きかえに、二十七ギリアの値をつけられ、見も知らぬ男に売り渡されたというわけだ。  しかも——生きては二度とこの地へもどれぬという。  では、どこへ連れていかれるのか……何をさせられねばならないのか……いずれにせよ、その境遇が、奴隷《どれい》以上のものであるとは思えない。  闇《やみ》の底にうずくまり、ベルタは呻《うめ》いた。  弁護官が言った(……運次第)とは、この買い手に左右される運命だったというわけだ。 (……いずれ、分かる)弁護官は、彼にそうささやいた。(死刑になっていた方がよかったと思うかもしれない)とも……。  そんな言葉の切れ切れが、ベルタの脳裡《のうり》を駆け巡った。  まんじりともせぬ内に、夜が明けた。  船長の言った�腹いっぱい�の食事とやらは、結局届かなかった。  それどころか、朝食の時間よりはるかに早く、迎えがやってきた。 「囚人13号、出房だ!」  獄吏《ごくり》の看守棒で小突かれ、ベルタは独房から追い出された。  よろめきながら曲がりくねった道路を進み、何重かの鉄格子《てつごうし》をくぐって、やっと獄舎の外に出た。  そのままさらに追い立てられ、別の小さな建物に連れ込まれた。  そこに——昨夜の二人が待っていた。  看守頭と船長である。 「着替えろ」  看守頭がベルタに命じた。  見ると、床の上に、洗いたてらしい、小ざっぱりとした青い衣服の上下が置いてある。サンダルがその上に積んであった。  言われるままに、ベルタは汗臭い獄衣を脱ぎ捨て、その上下を身につけた。サンダルもはいた。 「よし。いっしょに来るんだ」  船長が、ベルタを手招きした。  看守頭が横でうなずいた。 「行け、13号。いいお方にひろわれて、幸せと思え。言っておくが、おまえはもう人間じゃない。人間だったおまえは処刑され、死んだんだ。今のおまえは、二本足で歩く家畜と同じだ。そのことを忘れるな。それを忘れたら、船長も容赦《ようしや》はなさらんだろう。いいな? 分かったら、行け!」  船長がくるりと踵《きびす》を返した。  そしてすたすたと建物の外へ出ようとする。  慌《あわ》てて、ベルタは後を追った。  この建物のすぐ正面に石造りの門がある。  そこから左右に高い、やはり石造りの塀《へい》がのび、十|棟《むね》余りの獄舎を取り囲んでいる。  門の所まで、看守頭が見送りにきた。  門は鉄扉《てつぴ》で閉ざされていた。が、小さなくぐり戸が開いている。  船長がそこを先に通り抜けた。ベルタもすぐに続いた。  外界である。  白い街路が一直線に市の中心部へ向かってのびている。  ベルタは瞬間息が詰まりそうになった。  両手も両足も今は自由だ。  背中を脅《おど》かす看守棒もない。  昇ったばかりの太陽の光が、痛いほど強烈に感じられた。  しばらく進んで、ふと振り返ると、くぐり戸はすでにぴったりと閉じられていた。  もう二度とあの内側へ連れもどされたくはない。この先に何が待っているにせよ——ともかく、今、ベルタの胸は、自由な空気を吸い、そして吐いている。その実感が、一歩ごとにこみ上げてきた。  瞳《ひとみ》が、思わずうるんだ。  ベルタは小犬のような足取りで、船長を追った。  船長は、ベルタがついてくるのは当たり前とでも考えているのか、すたすたと坂道を下ってゆく。  その坂道の先——市の中心部を横切り、抜けたその先に——あの……汽車という名の巨大な自動馬車の荷台からベルタが望見した、青い平原が広がっていた。  そこへ向かって、船長は早足で下ってゆくのである。  やっと追いつき、ベルタはその横に並んだ。  が、彼の頭は船長の肩のあたりにやっと届くか届かないかだ。  と、いきなり、頭上から声が降ってきた。 「おまえ——」意外に甲高《かんだか》い声で、船長が言った。「人を殺したそうだな」 「いえ、違います!」  驚き慌《あわ》てて、ベルタは言い返した。 「殺しちゃいません。濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》なんです。殺したのは、僕じゃない!」 「ふん」  船長は鼻を鳴らした。 「まあ、そんなことはどうでもいい。名前は?」  訊《き》かれてベルタは黙り込んだ。  ベルタという名は、あの無名王の王都を脱出する時、咄嗟《とつさ》に思いついただけのものだ。  では、それ以前のケランベランを名乗るべきか。だが、その名前には、余りにもおぞましい記憶がしみついていた。二度とその名で呼ばれたくはなかった。  ならば、カルファか——しかし、その幼名も、彼の本当の名前ではない。元より、彼は、本当の名前を持ってはいないのだ。 「どうした? 名前を教えたくないのか?」船長が言った。「しかし、名前がなくては不便だ。よし、ならば、今からおまえをゲラと呼ぶことにしよう」 「ゲラ?」 「そうだ。これまで俺《おれ》の船で働いていた小間使いの名前だ。そいつがトルタンへ入港する三日ほど前に、溺《おぼ》れ死んじまった。仕方がないから、大枚はたいて、おまえを買い込んだってわけだ。おまえは死んだゲラのかわり。だから、おまえもゲラでよかろう」 「溺れて……死んだ?」 「ああ、甲板《かんぱん》から落っこちて、それきり浮いてこなかったのさ。ところで、おまえは泳げるんだろうな!」  船長が、以後ゲラと名付けられることになったベルタを見下ろして訊《き》いた。 「泳ぐって……どこで!?」  ゲラは不安に思い、訊き返した。  彼が育った村には腰までの深さの小川しかなかった。王都へ移ってからは、なおさら泳ぎなど縁遠くなった。泳ぎは王宮のごく一部の階級にしか許されぬ最もぜいたくな遊びだった。  ゲラも、数回、王宮内の水泳場へ連れていかれたことはある。が、その水に浸りはしたものの、とても泳ぐ技《わざ》を会得《えとく》するほどの時間は与えられなかった。  それにしても——なぜ、泳げるかどうかが問題になるのか?  かつてゲラと呼ばれていたその小間使いは、一体どこで溺《おぼ》れたのか? 「どこで泳ぐかだって?」船長があきれかえった風に眉《まゆ》を寄せた。「何を言ってるんだ。海に決まってるだろうが——」 「海……?」 「そうとも。俺《おれ》たちはこれから、海へ乗り出すんだ。落っこちて泳げなきゃあ、それでおしまいってわけだ」 「……海って……それは?」  船長が突然立ち止まった。  そしてゲラを見下ろし、しげしげと観察してから、やっと口を開いた。 「おまえ……まさか……海を知らんのか?」  ゲラはこくりとうなずいた。 「おまえ、このトルタンの生まれではないのか?」  再び、ゲラはうなずいた。 「なんてこった——」  船長は片方の手の平にこぶしを打ちつけ、天を仰いだ。 「じゃあ、おまえ、どこから来たんだ?」  ゲラは、太陽がぐいぐいと空へ昇りつつある方角を振り返った。  山並みが見える。  その中腹をえぐるように、ゲラをここまで運んできた汽車の道、鉄路が彼方《かなた》までうねうねと続いている。  その向こうを、ゲラは指差した。 「東からやってきたんです。あの、汽車に乗って。それまでは、雷王の都で暮らしていました」 「雷王の都だと! 聞いたこともない」  船長は両手を大きく左右に広げた。 「どちらにしろ、東の蛮地だな」 「都です、東の大きな都から——」 �蛮地�という言葉に反撥《はんぱつ》を感じ、ゲラはそう言い直した。  が、しかし、都の大きさをどう自慢してみても、彼等の目から見れば、ゲラたちはいかにも蛮地の住民に違いない。  雷王の都には、汽車はおろか、自動馬車一台走ってはいなかった。  移動は全《すべ》て、徒歩か獣車に頼る以外なかった。その他の手段は、全く知られていなかったのである。  それひとつを考えても、東方が蛮地呼ばわりされるのは仕方のないことと言えた。  その東方をじっと見つめたまま、ゲラは唇《くちびる》を噛《か》んだ。 「——なるほど」  船長が唸《うな》るような声を出した。 「ならば、海を知らないのも当然、か……」  そして船長は、その掌《て》をゲラの肩にのせ、ぐいと握った。 「見るがいい。あれが、海だ」  ゲラは振り向いた。  船長が見晴らしている先——そこに、青い平原が、果てしなく、果てしなく広がっていた。 「……海」  ゲラはつぶやいた。めまいを感じた。  海……それが、膨大《ぼうだい》な水をたたえる世界であることに、ゲラはすでに気付いていた。  が、しかし、そんな世界へ、一体どうやって乗り出すというのか——?  泳いでそこを渡るとでもいうのか——?  急に足の力が失われ、ゲラはその場にへたりこみそうになった。  船長は構わず喋《しやべ》り続けている。 「——そして、俺《おれ》の船は、あいつだ。港の右手に、三本帆柱が見えるだろう。あの船は、俺と同じ名前で呼ばれている。つまりモルケイン号だ。もっとも船乗りの仲間は、皆俺のことをモルックと呼ぶがね。いいか、よく覚えておけよ。港で何か面倒に巻き込まれそうになったら、まっ先に、船の名か、俺の綽名《あだな》を相手に伝えるんだ。それで、大抵のことは収まるはずだ。いいな、ゲラ?」  が、ゲラの耳には、何も届いてはいなかった。  彼の頭の中は、ただ、ただ果てしない青の色一色に塗りつぶされてしまっていた。  第十九話 セラファン海流 「いいか、ゲラ。これからが、海だ。本物の海は、ここからはじまるんだ」  モルケイン号は、狭い水道の出口にさしかかろうとしていた。  舵輪《だりん》を握るモルック船長の声に、ゲラは今までにない真剣さを感じとった。  確かに——  水道が切れるあたりから外の海は、波の様子が明らかに違って見えた。水の色までが違っていた。  トルタンを出港して、今日で九日になる。  途中一度、小さな港へ入り、荷を積んだ。そして陸沿いに、西へと進んできた。  船長の説明によると、ここまでは、東西に長い地中海、つまり陣地で囲まれた、言うなら巨大な湖のような海の南端に沿っての航海だった。  が、この先は違う。  水道を抜けた先は、ただひたすら果てしのない海また海の世界が広がっているのだという。  モルケイン号は、ここから北へ向かう。  北へおよそ七日の航海で、ザルダスペルンという島国に到達する予定だ。  交易品の売買を終えたら、島伝いに東へ針路を変え、港を巡りながら、再びこの地中海へ帰ってくるという。 「もちろん、いつかはまたトルタンへも立ち寄ることになるだろう。しかし、心配はいらん。それはずっと先の話だ。その頃《ころ》にはもう、誰《だれ》もおまえのことなんか覚えちゃいないさ」  船長は請け合った。 「しかし、それよりも何よりも、その前にまず、おまえに、せめて半人前くらいにはなってもらわんとな。さもないと——」  トルタンを出港して丸一日、ゲラは恐怖の余り、ただ船室の隅《すみ》にうずくまり、震え続けた。食物も水も、ひと口たりとも喉《のど》を通らない。  二日目、船長に幾度もどやしつけられ、痛い目に逢《あ》わされ、かろうじて船内を歩き回れるようにはなった。  が、海の見える舷側《げんそく》へはどうしても近付けない。  モルケイン号には、三十人近い海の男たちが乗り組んでいた。  船長の小間使いとしてだけでなく、彼等全員の身の回りの世話をするのが、ゲラの役目だった。しかし、そんな有様だから、とても他人の面倒を見るどころではなかった。  三日目になって、恐怖心はやや薄れたものの、今度はそのせいで船酔いにつけこまれ、所構わず吐瀉物《としやぶつ》をぶちまけ続けた。  そこで——船長はついに宣告した。 「あと二日で次の港へ着く。そこを出港してもまだ何の役にもたたんようなら、おまえを海へ放り込むからな! 覚悟しろ!」  この、冗談《じようだん》とはとても思えぬ脅《おど》しのおかげで、ゲラはやっと立ち直るきっかけを掴《つか》んだ。  海に囲まれている恐怖心よりも、当然のことながら、放り込まれることの恐怖心の方が勝《まさ》ったのだ。  そして、ともかくも今日までを、ゲラは船の上で過ごしてきた。  常に揺れ続ける甲板《かんぱん》にも大分慣れた。  仕事が途切れると、他の乗組員の作業の邪魔にならぬよう、船長のいる操舵《そうだ》室へやってくる。  すると船長が、何やかやと、海に関する知識のあれこれを、ゲラに投げ与えてくれるのである。 「ようし、帆を張るぞ。準備、いいか?」  水道を抜け切ったところで、船長は伝声管に向かって叫んだ。  すぐに「準備よし!」の応答が返ってきた。  三本の帆柱それぞれに乗組員たちが取りつき、するするとてっぺんめがけて登っていくのが見える。  やがて、巻き込まれていた白い大きな帆布《ほぬの》が繰り出され、たちまち風をはらんでふくれ上がった。  このモルケイン号は、風と、そして蒸気を利用する機械の力で海上を前進する。  蒸気は、巨大なかまどの火によって発生させられ、その吹き出す力が機関を回し、海面下の推進器へと伝えられる。  その仕組みは、トルタン市へゲラを運んだ鉄の怪物�汽車�と、ほぼ同じであるらしい。  ……などなど、ゲラにとっては、そうした知識の何もかもが新しく、めずらしく、そして驚異だった。  三本の帆柱全部に帆が張り終えられた。  船足がみるみる上がる。  と同時に、これまでとはまるで違う荒々しい海面のうねりが、モルケイン号を容赦《ようしや》なく翻弄《ほんろう》しはじめた。 「……くるかな」  うねりの彼方《かなた》を凝視《ぎようし》していた船長が、そうぽつりとつぶやいた。 「何が、くるんです?」  不安に駆られ、ゲラは尋ねてみた。 「あれだ。あれが見えるだろう」  船長が指差す先を確かめようと、ゲラは操舵《そうだ》室前面の窓越しに、海上を見渡した。  行手に——  低く垂れ込めた真黒な雲が渦《うず》を巻いている。  その雲の内部で、時に稲妻が激しくひらめく。 「あの雲の下は、とてつもない嵐《あらし》だ。巻き込まれたら、ひとたまりもあるまい……」  ひとりごちる口調で、船長は続けた。 「……さて、どうするか、だが……いったん南へ下ってセラファン海流を乗り切るしかないかもしれん……」 「セラファン……海流?」 「海の水が、川のように激しく西へ向かって流れている場所があるんだ。セラファン海流と呼ばれている。その向こう側へ渡り切れれば、たいていの嵐はもう後を追ってこない。その海流を境にして、南と北の空気が逆の渦を巻いているからだ——」  そして、船長はつけ加えた。 「ただし、俺《おれ》としちゃあ、こいつは余り試してみたくない方法なんだが……」 「なぜです?」 「第一に——セラファン海流は、その時々で潮の速さがまるで違う。つまり、いつも必ず乗り切れるとは限らんのだ。それと、もうひとつ——たとえうまく潮を乗り切れても、それでもしつこく追いかけてくる嵐《あらし》がないわけじゃない。空気の境目なんぞお構いなしに突進してくる嵐もあるってことだ……」  船長の危惧《きぐ》は的中した。  夕刻、モルケイン号は、やっとのことで海流を乗り切った。ともかくも、その横断には成功した。  だが、嵐もまた易々《やすやす》とそこを突破して、船めがけ襲いかかってきたのである。  船体のどこかが裂ける音を、ゲラは船底に近い貯蔵室の中で聞いた。そこから夜食用の塩漬《しおづ》けの肉を運び上げてくるように命じられていたのだ。  続いて、激しい震動がきた。  塩漬け肉の詰まった樽《たる》が、その震動で横に倒れ、ごろごろと転がりだした。中身はもちろん、あたりにぶちまけられた。  ゲラは慌《あわ》てた。  が、それを元にもどすどころではなかった。  貯蔵室内にぎっしり積み上げられていたその他の樽や壷《つぼ》、木箱などが、一斉に崩れだしたからだ。  まごまごしていては、押しつぶされてしまう。  ゲラは飛び出した。  そして、上甲板《じようかんぱん》に通じる梯子《はしご》にしがみついた。  その瞬間——  頭上から、どっと海水が降ってきた。危うく押し流されそうになりながら、ゲラは必死でよじ登った。  海水は次から次へと流れ落ちてくる。  やっとのことでひとつ上の甲板に首が届いた。と、その時——  船内のところどころに取り付けてある照明用の電気灯が、ちかちかと瞬《またた》き、そして、ふっと消えた。  あたりは、完全な闇《やみ》に閉ざされた。  が、ここからなら手探りででもなんとかなる。  なおも激しく流れ込んでくる海水に逆らいながら、ゲラは次の梯子《はしご》に取り付いた。  一度、不意の突き上げで手摺《てすり》から振り落とされたが、それでも遮二無二《しやにむに》上層を目指した。  と、わずかに闇が薄れた。  窓だ。円型の窓の輪郭《りんかく》が、ぼんやりと見分けられた。上甲板へ出たのだ。  男たちの慌《あわただ》しい足音も聞こえる。  ゲラは叫んだ。 「誰《だれ》か! 助けて——!」  窓の向こうを、紫色の稲妻が走り抜けた。  瞬間、あたりの様子が照らし出された。どこもかしこも水浸しである。 「誰か——っ!」  甲板の向こうで、明かりがきらめいた。携帯《けいたい》用の電気灯らしい。三、四人の影が見えた。  ゲラの声を聞きつけたらしく、その一人が駆けつけてきた。 「ゲラか?」  力強い腕が、彼を床から引き起こしてくれた。 「あっちへ行ってろ! 流されるぞ」  背中をどんと突かれた。そこへまた、すさまじい水しぶきが襲いかかってきた。  船体がぐらりと、突んのめるような形に傾いた。  ゲラはもんどり打って倒れ、そのまま転がって壁に叩《たた》きつけられた。  やっと立ち上がると、操舵室《そうだしつ》に通じる連絡|扉《とびら》が見えた。それを引き開け、ゲラは手摺《てすり》伝いに操舵室へ登った。  モルック船長の影が見えた。 「機関室、どうした——!?」  伝声管に向かって、船長がわめいている。 「駄目《だめ》です! もう水が腰まで来た! 缶《かん》の火が消えかかっている!!」 「よし! もういい、上へ上がってこい!」  船長が怒鳴り返した。  それに対する応答は、言葉というより悲鳴に近かった。  そしてやっと、船長はゲラに気付き、振り返った。 「悪い船に乗り合わせちまったようだな」  意外に思えるほど静かな声で、船長が言った。 「もう長くはもたん。船長としてできる仕事は、祈ることだけになってしまった」  その時、船がまたすさまじい力で突き上げられ、そしてうねりのただ中へ投げつけられた。  そのまま、傾きが元へもどらない。  船長とゲラは、操舵室の隅《すみ》へ、からまりあって叩《たた》きつけられた。  踊り狂う稲妻の轟音《ごうおん》が、ひっきりなしに船体を震わせ続けている。どこもかしこもが、軋《きし》み、鳴り、歪《ゆが》み、やがて裂け砕ける運命に対して呪詛《じゆそ》の金切り声を張り上げている。  破れた窓にすがって、二人はやっとのことで立ち上がった。  そこからも、雨と波しぶきが、滝のように吹き込んでくる。 「ゲラ、おまえに泳ぎを教えてやる約束だった」  船長が、猛《たけ》り狂うどす黒い海面を見渡して、言った。 「しかし、もうその暇はなさそうた。だから、これを——」  大声で言いながら、船長は傾いた操舵《そうだ》室の床を這《は》い上がり、舵輪下の物入れから何かを引きずり出して、それを、ゲラの方に放って寄こした。  奇妙な代物《しろもの》だった。  小さな木製の樽《たる》が四つ、数本の縄《なわ》で結び合わせてある。 「その輪のところに、首と両腕を通すんだ」  船長が身振りを交え、使い方を説明した。 「……これは?」 「その樽のひとつには真水《まみず》が入っている。他の三つのどれかに食い物も入れてあるはずだ。しっかり、身体に縛《しば》りつけておけ。そうしておけば泳げなくとも、二日間は浮いていられる」 「二日……」 「二日で充分だ。それで駄目《だめ》なら、何日浮いてようと——」  その時だ。すさまじい音が響き渡った。  そして、いきなり、足元が崩れた。そう思った。  あとは何が何だか分からなくなった。  まっさかさまに墜《お》ち、弾《はじ》き飛ばされ、叩《たた》きつけられて小突き回された。  叫ぼうとして開いた口から、塩っ辛い水をしたたか呑《の》み込んだ。  せき込み、むせ返り、また水を呑んだ。  胸が張り裂けそうに痛んだ。  それでも、死にもの狂いで手足をばたつかせた。  ふっ、と呼吸が楽になった。  が、すぐまた水中に引きずり込まれた。  そのまま、抗《あらが》いようのない力で振り回された。  たちまち、胸の中が空っぽになった。  意識があっさりと遠のいた。  ………… 「……ゲラ…………しっかりしろ……しっかりするんだ、ゲラ!……」  ……遠い、微《かす》かな声……それが闇《やみ》の彼方《かなた》から聞こえていた。 (……船長)  声の主に思いあたると同時に、両方の頬《ほお》に加えられている打撃の痛みを意識した。 「ゲラ! 目を開けろ!」  ゲラは目蓋《まぶた》を上げた。  身体《からだ》が持ち上げられ、また引き込まれる。そしてまた持ち上げられ……その向こうに……大小のうねりの山で埋めつくされた見渡す限りの海原が広がっていた。 「……船長」  つぶやきかけ、ゲラは大量の海水を吐きもどした。拍子に、波をかぶり、またそれを呑《の》んだ。  苦しい……そして、寒い。全身の筋肉が木片のようにこわばっていた。  しかし、不思議と恐怖感はさほど湧《わ》いてこない。  水平線が、すでに白みつつあった。  波は高い。風もまだ強かった。  しぶきが雨のように吹きつけてくる。  が、どうやら、嵐《あらし》はすでに去ったようだ。  空が、みるみる内に明るさを取りもどしはじめた。  ゲラはまた水を吐いた。息が少しだけ楽になった。 「船長——」  今度は割合にしっかりとした声が出た。 「ここは……?」 「どうやら、二人して海へ放り出されちまったようだ」  船長が呻《うめ》くように答えた。 「今も、どんどん流されている」 「流されて?」 「このままだと、セラファンの本流に巻き込まれてしまう」 「セラファン……」  ゲラの脳裡《のうり》を、その海流の名前がゆっくりと横切った。 (……セラファン……)  はじめて耳にした時から、聞き覚えがあるように思えてならなかった。が、いまだに思い出せない。  その言葉は、はるか子供時代の思い出にまつわる雰囲気《ふんいき》を呼び寄せているように思えた。  けれど、その子供時代には、海流はおろか、海というものの存在すら、彼は夢想もできなかったはずなのだ。 「どうなるんです?……どうしたら、いいんです……」  ゲラは細い声で尋ねた。  彼を波の上に浮かべてくれているのは、例の四個の樽《たる》をつなぎ合わせた道具だった。  しかし、船長はそういったものを何ひとつ身につけていない。それでいて、浮いている。 「俺《おれ》は——」船長が、ゲラを正面から見据え、言った。「船へ、もどる」 「船へ——!?」 「船は、おそらく、もう波の下へ沈んでしまっただろう。だが、その沈んだあたりには、俺の部下たちがいるはずだ」 「僕《ぼく》は——!? じゃあ、僕は——」 「残念ながら、おまえを引っ張って、潮に逆らい泳ぎ続ける自信はない。しかも、おまえを連れていったところで、おまえを助けてやれるわけでもない」 「…………」 「しかし、俺はもどらねばならん。もどれるかどうかは分からん。が、ともかく、仲間を見捨てたとあっちゃあ、地獄《じごく》で奴等《やつら》に何を言われるか分かったもんじゃない。俺は、奴等を探しにもどる。せめていっしょに死んでやるのが、船長たるものの、最後の務めってわけだ」  波にもまれながら、船長はにやりと口元を歪《ゆが》めた。 「おまえさんも頑張《がんば》るんだ。嵐《あらし》で潮の流れが早くなっている。このまま本流に乗れば、一日、二日でかなりの距離を進めるだろう。その間に、どこかの船にひろい上げてもらえんものでもない……最後まで、それを信じて……いいな!」  船長は身をひるがえした。  そして波の向こうへ泳ぎ去った。  第二十話 快速雷撃艦  モルック船長の言葉は、ふたつとも正しかった。  船長が波の向こうに消え、独り取り残されてしばらくの後、ゲラは、自分の身体《からだ》が、強く、そして早い潮の流れにがっちりと掴《つか》み取られたことをはっきり意識した。  もちろん、四方見渡す限り、波また波の世界である。どこに目印があるわけでもない。だから、距離の判断はつけようがない。  しかし、それでも、みるみる彼方《かなた》へと運ばれていく実感があった。  もうどうあがいても、潮の外へ逃れることはできそうになかった。ただ身をまかせ、運命にゆだねるしかなかった。  日中は照りつける太陽に炙《あぶ》られ、夜は星の光にこごえた。  そして、二日目が明けた。  樽《たる》の中の水に、次第に塩気が混じりつつあった。  別の樽に入れてあった乾肉と乾パンの内、乾パンは沁《し》み込んだ海水のためどろどろに融《と》けてしまった。  日が高くなると、乾肉の方も、次第に腐臭を放ちはじめた。  それは、つまり——  浮力を保つためにくくりつけてある、あと二つの樽の状態をも暗示するものだった。  最初は、胸から上が完全に波の上に出ていた。それが今では、うっかり平衡《へいこう》を崩すと、口のあたりまでずぶりと沈み込んでしまう。 「二日間は浮いていられる」——と、船長の保証したその期限が切れかかっているというわけだ。  融けた乾パンを指ですくって食べ、乾肉は捨てた。  水も飲める内にと喉《のど》へ流し込んだ。  そして空にした樽の口をきっちりと閉じ、それにすがった。が、すでに、樽自体の継ぎ目がゆるみはじめていて、浮力はますます失われるばかりだ。  四個の樽の蓋《ふた》をとっかえひっかえ開き、中にたまった海水を掻《か》き出してはみるものの、遠からず、流れ込む海水の量は、掻き出す量を上回ってしまうに違いなかった。  空は晴れ渡っていた。  が、ゲラの心の中は、すでにどす黒い雲に覆いつくされていた。  そんな時——  大きなうねりの頂上へとゆっくり持ち上げられたゲラの目は……水平線上、見え隠れする何かを認めた。  何か……最初、それは、小さな灰色のかたまりと、そこから突き出た細い棒のように見えた。  が、目をこらす内……それは次第に全体を現わしつつ、こちらへ近付いてくるではないか。 (船だ——!)  ゲラは確信した。  そして、船長が彼のために遺《のこ》した最後の言葉を思い出した。 「……どこかの船に、ひろい上げてもらえんものでもない……」——そんな、ささやかではあれ、ともかくも希望を、船長は彼に与え、そして、去っていった。  それが、今、現実のものとして、ゲラの眼の前に現われたのである。  しかし……それにしても……それが船であることは間違いないにしろ……その姿は、余りにも異様だった。  全体が、ともすれば海そのものにまぎれてしまいそうな青灰色である。  そして、何より、帆柱がない。帆柱に似た尖塔《せんとう》はあるものの、そこには帆布《ほぬの》のかわりに、複雑怪奇な板や球、格子《こうし》、棒などが取りつけてあった。  トルタン港で、あるいは航海の途中で、ゲラもさまざまな船を目撃し、あるいはそれらと行き違った。  だが、今、彼めがけ近付いてくる青灰色の船体は、そのどれとも違っていた。  違っているのは形だけではない。  早い! 信じられぬほどの速度である。  たちまち、その船は、ゲラにのしかかってきそうな間近まで迫ってきた。  船上に人影が見えた。  ゲラに向かって手を振っている者もいる。ゲラも必死で合図を返した。  船は、そのままの速度で、一度ゲラのすぐ横を行き過ぎた。  波を食らって、ゲラは海中に沈んだ。再び波間に顔が浮かんだ時、船は減速をはじめていた。そしてゆっくりと舳先《へさき》を巡らし、もどってくる。  改めて眺《なが》め渡すと——巨大だ。モルケイン号の三倍近い長さと、倍以上の高さがある。  その姿には、かつて見た無名王の城砦《じようさい》を思わせるいかめしさがあった。  船上から、縄《なわ》梯子《ばしご》が投げ下ろされた。  ゲラはそれにしがみついた。しかし、自分でよじ登る力はない。ただしがみついたなり、引き上げられるのを待った。  彼を見下ろす船員たちは、皆|揃《そろ》いの制服、覆いつきの帽子、手袋などに身を固めていた。  やっとのことで舷側《げんそく》を越えたゲラに、その中の二、三人が近付いてきた。  そして、まるで荷物か何かを扱うような手早さで、ゲラの衣服を剥《は》ぎ取った。  その剥ぎ取られた衣服は、別の船員に渡された。するとその船員は、何か棒状のものを濡《ぬ》れた衣服のあちこちに押しつけ、そして言った。 「放射反応、ありません!」 「よし!」  別の一人が答えた。 「第三級警戒、解除!」  船員たちがざわざわと動き、帽子、手袋を脱ぎ捨てはじめた。  続いて、ゲラに、頭から水が浴びせられた。  ゲラは縮み上がった。  が、それはともかくも真水だった。  ゲラはその放水口に顔を向け、むさぼり飲んだ。 「待て、我慢しろ。吐きもどすだけだぞ」  誰《だれ》かがゲラに注意した。  しかし、我慢できなかった。  そして結局、胃の中が空っぽになるまで吐き続けることになった。  一人が毛布を運んできた。そして、それでゲラの全身をくるんだ。 「こっちだ」  その一人が、ゲラの背中を押した。  ゲラは船内の狭苦しい一室に連れ込まれた。  やがて、湯気の立つスープと水、それにパンひと切れが運ばれてきた。 「ここで待ってろ」  そう言い残し、船員は去った。  鉄製の扉《とびら》が、とてつもない音をたてて閉ざされた。  部屋に窓はなかった。そして、どこもかしこもが、鉄でできていた。  鉄製の壁から、鉄製の棚《たな》が張り出している。それがどうやら寝台らしい。  その隅《すみ》に、ゲラは腰を下ろした。  まるで、監獄《かんごく》のようだ。トルタン市の独房よりも、この部屋はもっと寒々しく感じられた。  足の下から、ゴンゴンゴン……と、規則正しい、鼓動に似た音が響いてくる。  それが急に高まり、床がぐらりと揺れた。  船が、再び、航進を開始したのだろう。  やっと少し、気持ちが落ち着いた。震えも収まりつつある。  ゲラは食べ物に、恐る恐る手をのばした。  まず水をひと口、それから暖かいスープを、慎重にゆっくりと飲み下した。  身体がじわりじわりと生気をとりもどしていくのが分かる。  パンも少しずつ、よく噛《か》みしめてから、胃の中に収めた。  と、急に、どっと疲労が押し寄せてきた。  全《すべ》てを平らげ、容器を床に下ろして、ゲラは寝台にごろりと横になった。  その直後——  鉄の扉《とびら》が外から押し開かれた。 「起きなさい!」  鋭い声が、ゲラの鼓膜に突きささった。  ゲラは飛び起きた。  二人の男が立っていた。  一人は、その服装からして、明らかに身分の高い人間に見えた。そして、モルック船長のものとよく似た、ひさしと金色の徽章《きしよう》のついた、角張った帽子を頭にのせていた。  その男が、一歩室内に歩み入ると、断固たる口調でゲラに対し宣告した。 「自分は、本艦副長グラン・|RR《アルル》・ミランである。今より、戦時救難条約に基づく糺問《きゆうもん》権を行使する。黙秘は自由だが、条約規定の第一位問に答えない場合は、処刑もあり得る。では、糺問を開始する——」  わけも分からぬまま、ゲラは思わずうなずいた。  男が言葉を継いだ。 「ではまず、所属、階級、同定番号、及び乗艦名を順に述べなさい」  ゲラは目を丸くした。  何を言われているのか分からない。  言葉は聞き取れるが、内容を把握《はあく》できないのだ。 「…………」  口をつぐむしかなかった。  男の表情が微《かす》かに険しさを帯びた。 「言ったように、第一位問を拒否する者に対しては、条約によって処刑が認められている。それでもなお、処刑を選ぶのであれば——」  ゲラは慌《あわ》てた。  何かを質問されているらしいのは分かる。が、何をどう答えていいのかが、まるで分からない。それでも、�処刑�という言葉だけは、くっきりと理解できた。 「嫌《いや》です、処刑なんて——」  ゲラは叫んだ。 「ならば、答えなさい」 「答えます! どんなことでも——」 「よろしい。ではまず、所属と階級、そして同定番号、乗艦名を——」 「待ってください、お願いです。その……もう少し、ゆっくり……分かりやすく言ってください。答えます。なんでも答えます。ですから——」  グラン・|RR《アルル》・ミランと名乗った男は、片方の眉《まゆ》をぐいと上げ、ゲラを見つめ直した。  やっとのことで、ゲラが質問内容をよく理解できないらしいと察したようだ。 「君は——つまり、船に乗っていたはずだね?」  打って変わって、今度はゲラの知能を疑ぐる口調で、ミランは言った。 「はい」  ゲラは答えた。 「その船の名前を言ってごらん」 「モルケイン号です」 「モル・ケイン号?」  ミランの眉《まゆ》が、またびくりと動いた。そして彼は、後にひかえている部下と思える男に顔を向けた。 「少尉、聞いたことがあるかね?」 「いえ」彼はかぶりを振った。「少なくとも、我が軍にとっては未知の艦と思われます」  ミランはうなずき、ゲラの方に向き直った。 「その船における君の部署は……つまり、君は、その船で何をしていたんだ?」 「ぼくは、小間使いでした。船長のモルックさんに買い取られて——」 「何だって? 買い取られた? 小間使いだって?」  ミランの声が甲高《かんだか》くなった。 「じゃあ、その、モルケイン号とかいう船は、一体、どんな船だったんだね?」 「三本帆柱の、立派な交易船でした」  ミランの後で、少尉がくすりと笑い声を洩《も》らした。  ミランが口をへの字に曲げた。そして、黙り込んだ。  かわりに、その少尉が質問を引き継いだ。 「で、君が乗っていた三本帆柱の立派な船はどうなったんだ?」 「分からないんです」 「分からない?」 「え、ええ。夜でした。二日前の夜から嵐《あらし》がはじまって……船長はセラファン海流を乗り切って逃げようとしたのですが、それでも嵐が追いかけてきたんです。船があちこち破れて、水がどんどん入ってきて……結局……そうなんです。ぼくは船長といっしょに、海へ投げ出されてしまったんです。そして、流されて……気がついた時には、船はもう見えませんでした。どこにも……」 「その船長は?」 「船の所へ、船の仲間の所へもどるんだと言って、独りで泳いで……」  その光景が、ゲラの脳裡《のうり》にまざまざとよみがえってきた。  ゲラの全身が激しく震えだした。 「……みんなといっしょに死ぬんだと言って……それが、船長たるものの務めだと……」 「ふん」  ミランが鼻を鳴らした。 「我等が艦長にも聞かしてやりたい話だ」 「その発言は、報告から削除させていただきます」  少尉が小声でミランに言った。 「ふん!」  ミランはなお強く鼻を鳴らした。そして、ゲラをじろりと横目でにらんだ。 「……しかし、その嵐《あらし》とやらを信じてもいいのかどうか、だが……」 「二日前の夜半から、東方戦域外の未開海上が暴風雨圏内にあったのは事実です」  少尉が口をはさんだ。 「偵察機《ていさつき》の気象写真をご覧になれば——」 「どの位東方だ?」 「本艦の現在位置より、約四百|海程《かいてい》ほど東方の海域です」 「四百海程? ずいぶんと遠いじゃないか。たった二晩の漂流で、この戦域内へ運ばれてくるとは——」 「あり得ないことではありません、副長」  少尉が答えた。 「強勢低気圧の影響で、海流が毎時十二|海程《かいてい》前後にまで加速されています。その本流に運ばれれば、ほぼ一昼夜ほどで——」 「分かった、分かった」  ミランが面倒臭そうに首を振った。 「この�小間使�は、君にまかせよう。まったく——妙なものをひろっちまったもんだ。三本帆柱か……ふん! 未開海域の遭難者《そうなんしや》が、また後から後から流れてくるようじゃ、たまったもんじゃない。よろしい。艦長にはその旨《むね》報告し、転針を具申しておく」 「はッ」 「君は、こいつの面倒を見てやれ。一応、生まれと名前を確認しておくように。帰港後の処置については、軍令部から指示があるだろう」 「分かりました」  副長ミランは、そのまま部屋から出て行った。  少尉とゲラがそこに残った。 「恐《こわ》がらなくていい。もう安心だ」  少尉が優しい笑顔をゲラに向けた。 「わたしの名はフライ・|BR《ブール》・ブライだ」  彼がゲラに手を差し出した。  どう応じてよいか分からず、ゲラも反射的に手をのばした。それを少尉の掌《て》が暖かく包んだ。 「|BR《ブール》と呼んでくれ」 「ブール……じゃあ、少尉というのは?」  ゲラはさっき耳にした言葉を口に出した。 「それは、階級だよ。名前じゃない。我々は軍人だ。軍人には、みんな一人一人、位がある。さっきの副長は少佐だ。わたしよりも、三つ上の階級に属している。つまり、わたしよりも、三つほど偉いってわけだ」  なんとはなしに、意味は分かる。  ゲラはうなずいた。 「ところで、君の名はなんというんだ?」 「ぼくは……」 (ゲラ)と答えようとして、ためらった。  それは、すでに死んだ人間の名前だった。  そして、そう呼ばれねばならぬ必要も、もうなくなってしまっていた。 「モルケイン号では、ゲラと呼ばれていました。でも、それはぼくの名前じゃないんです。ぼくには……本当の名前がないんです。これまでも、いろいろな人達に、いろいろな名前で呼ばれてきました。でも、どれも、ぼくの本当の名前じゃないんです」  この少尉の前では、なぜか素直になれた。だから、ありのままを、彼は答えた。 「名前がない?」  少尉は眉《まゆ》を寄せた。 「君はどこで生まれたんだね!」 「ずっと……ずっと東です。海流の向こうの、海峡よりも、地中海よりも……トルタン市よりも、もっとずっと東の……無名王の都の、さらにまた東の村で……」  少尉はゆっくりと首を横へ振った。 「知らないんだ、我々は……」  少尉の視線が、宙をさまよった。 「我々は、条約で定められた戦闘海域の外へ出ることを禁じられている。現在のこの位置が、すでに戦域の東端に近い。この先、東方の未開海域へ離脱しようとする艦船は、条約維持軍の査察部隊によって、ただちに撃沈されてしまう。だから、君の言うその世界のことは、誰《だれ》も知らないんだ」 「条約……というのは?」 「戦争のための条約だよ。戦争を、正しく、きちんと遂行するための取り決め、規則を条約と呼ぶんだ」 「どうして、そんなものが……」 「だって、必要だろう? もし条約がなければ、誰《だれ》も彼もが勝手に戦争を動かし、押し進めようとしはじめるに決まっている。そうなったら、もう戦争どころじゃない、破滅だ。世界中の軍隊が破滅してしまう」 「…………」 「だから、各軍邦、軍事機構、軍事結社や大小の戦団までが寄り集まって協議して、条約が生まれた。そう言い伝えられている。条約維持軍は、それら全組織が平等に戦力を提供しあってできた完全中立の混成軍だ。彼等のおかげで、我々は自分たちの任務に邁進《まいしん》できる」  少尉はちょっと誇らしげに胸を張り、そして彼を見下ろした。 「さて、じゃあ、艦内を君に少し見学させてあげよう。君は運がいいぞ。本艦は、我が大東軍邦が誇る最新鋭の快速雷撃艦だ。誘導式雷撃弾十六基を備え、時速四十二海程で巡航できる——と言っても、君にはよく分からんだろうが……なに、その内、少しずつ説明してやろう」  少尉は上機嫌《じようきげん》で彼の肩を叩《たた》いた。 「ちょっと……その前に……」  ためらいがちに、彼は少尉に訊《き》いた。 「……ということは、つまり……戦争が続いているんですね?」 「その通りだ」 「なぜ、ですか?」 「なぜ? どういうことだね?」 「どうして、戦争を続けるんですか?」  その質問に、少尉は、いかにも心外そうに口元を歪《ゆが》めた。 「なぜって、戦争こそは全《すべ》ての原動力じゃないか。戦争のおかげで、我々は未開を脱したと言い伝えられている。そうとも。文明の基礎は、戦争以外に築けっこない。第一、戦争がなければ、経済に活力を与えることだって出来やしない。国民の心もばらばらになってしまう。科学や技術にしたところで、戦争という目的があるからこそ、高度なものが要求される。ああ! 待ってくれよ——」  少尉は首をぶるぶると振った。 「君は東方未開地の出身だったね? 未開地じゃあ、戦争がないってのは本当かい?」 「戦争の話は聞いたことがあります。昔話とか、物語で……でも、実際の戦争は知りません」 「そら見ろ!」  少尉は瞳《ひとみ》を輝かせた。 「それが何よりの証明だ。だから条約は、戦域外の東方未開世界との交流を禁じているんだ。沈滞した平和によって、我々の文明が汚染されぬように——」 「その……その条約というのは、いつ作られたんですか?」  少尉は笑い、首を振った。 「その質問は、戦争がいつはじまったかと訊《き》くのと同じだ。つまり、誰《だれ》もそれに答えられはしない。戦争がはじまり、条約が作られ、そしてはじめて、我々の世界は生まれたんだ」 「……じゃあ、戦争はずっと……」 「戦争が終われば、世界も終わる。さあ、戦争論はそれくらいにして、君を案内させてくれ。きっと驚くことばかりのはずだ。おっと、その前に——」  少尉は少しの間考え込み、そして言った。 「君にまず名前をつけなくちゃならん。名前がなくては、上陸してから軍民登録も受けられやしない。よし! わたしの同定文字から一文字を君に上げよう」 「同定文字?」 「そうとも。単なる呼び名とは別に、軍民として登録する場合に使用する文字だ。二文字ないし三文字を組み合わせて、その下に同定番号がくる。この番号は、登録の後に当局から与えられる。勝手に決めるわけにはいかない。しかし、同定文字の方は、自分で申告できる。わたしは、BとRで|BR《ブール》だ。そのどちらか好きな方を選びたまえ」  その二文字を毛布の上になぞってみせ、少尉は言った。  が、選べと言われても、選びようがなかった。なぜなら—— 「ぼくは……文字を知らないんです」  それは当然だった。  文字は、正しい名前を持つ者しか学ぶことの許されぬ知識だった。  即《すなわ》ち、まず自分の名前に相当する文字を教えられ、その何文字かとの関わりで、少しずつ他の文字が与えられていく。  少なくとも、彼が育った村の掟《おきて》はそうだった。  だから、はじめから名前を持たぬ彼は、それを学ぶそもそものきっかけを奪われていたことになる。  が、それでも、見聞きして覚えた文字はいくつかある。  しかし、今、少尉が彼に示した文字は、どちらもまるでなじみのないものだった。  彼が知る文字はもっと複雑で、しかも発音の仕方がひと通りではなかった。 「文字を知らんのか」  少尉は唇《くちびる》を尖《とが》らせた。 「文字ってのは、全部で二十二ある。男性文字が十七に女性文字が五つだ。これを組み合わせることで、全ての言葉を文字に直すことができる……」  言いながら、少尉は、その二十二文字を毛布の上に次々と書きつけていった。 「さあ、気に入った覚えやすい文字を、二つ選んでみろ」  毛布の上に、そのなぞった跡が残っていた。  少尉に言われ、彼は適当に、その中の二文字を指差した。 「駄目《だめ》だよ。そいつは女性文字だ。君は男だろう? だったら、そいつは使えない」  やり直しが命じられた。  迷っていても仕方がない。彼は、さっき少尉が自分の名前だと言って教えてくれた一文字を選び直した。 「それで大丈夫だ」  少尉もうなずいた。 「わたしのBに、そして、Cだ。BとCで|BC《ビーク》、よし決まった。おまえは今から|BC《ビーク》だ。その文字を忘れるなよ」  生まれてはじめて、彼は自分の文字を手に入れた。  第二十一話 超都市|SYG《サイガ》  五日後——巡察任務を完了した快速雷撃艦|DRD《ドルド》は、大東軍邦の母港|SYG《サイガ》に無事帰り着いた。  その五日の間に、|DRD《ドルド》は一度だけ、敵と交戦した。  と言っても、敵影が実際に視認できたわけではない。  |DRD《ドルド》から発進した無人|偵察機《ていさつき》がはるか彼方《かなた》の洋上で敵艦を捕捉《ほそく》し、その見えざる獲物《えもの》に対し、ただちに誘導雷撃弾二基が発射されたのだ。  戦闘はそれで終わった。  敵艦は轟沈《ごうちん》した。  そう、偵察機は報告してきた。  もし、その攻撃が一瞬でも遅れていたら、敵艦と同じ運命が|DRD《ドルド》を見舞っていたに違いないという。  敵の偵察機もまた、高空から|DRD《ドルド》に接触していた。|DRD《ドルド》の雷撃弾が、敵艦に突入したまさにその時、敵艦の発射台は旋回を終え、|DRD《ドルド》を指向して弾体をもたげつつあったというのだ。 「一瞬だ!」|BR《ブール》少尉は興奮して|BC《ビーク》にまくしたてた。「一瞬の決断が勝敗を決したのだ! これが、戦争だ。これこそが——」  が、|BC《ビーク》はその話にただ恐れおののくことしかできなかった。  その五日間に——  |BC《ビーク》はさらにいろいろなことを学んだ。  男性文字十七、女性文字五種類を、ほぼ書き分けられるようにもなった。  少尉は親切だった。その好意は上辺《うわべ》だけのものとは思えなかった。 「まず軍民票を手に入れなくちゃならない。軍民票がなくては、交通機関も利用できないし、食料の配給だって受けられやしないんだ」  上陸後のあれこれを、少尉は|BC《ビーク》に説明した。 「我が大東軍邦は、国家体として完璧《かんぺき》に組織されている。だから、その組織内に組み込まれない限り、誰《だれ》一人《ひとり》生きてはいけない。そのかわり、一度そこに組み込まれれば、あとは国家が全《すべ》て導いてくれる。我々はただ、それに従って任務を果たしさえすればいいんだ」  少尉によれば、それはまさしく理想国家であるらしかった。 「何も心配はいらない」  少尉は請け合った。 「上陸したら、わたしが登録を手伝ってあげるから——」  そして、ともかくも——  |DRD《ドルド》にひろい上げられてから五日目に、|BC《ビーク》は夢にまで見た陸地と再会することができた。  |SYG《サイガ》は——巨大な都市だった。  怪物のような都市と形容してもよかった。  天に届きそうな建物が幾十も幾百も林立し、その谷間を縫うように、空中走路や空中歩廊が縦横に張り巡らされていた。  最初——  水平線の向こうにその姿が現われても、|BC《ビーク》はなかなか、全体の規模を認識できなかった。  迷宮のような無名王の巨城で暮らしたことのある彼にとってさえ、|SYG《サイガ》ははるかに、全てにおいて超絶的だった。  後に知り得たことだが、|SYG《サイガ》最大の摩天楼《まてんろう》は、それひとつで、無名王の都全体にも匹敵《ひつてき》する暮らしの場を人々に与えることができるのである。  そんな途方もない建造物群に囲まれて、港はあった。  目がくらんだ。  上陸を前に、足がすくんだ。  その日はじめて|DRD《ドルド》艦長が|BC《ビーク》の前に現われた。  そして艦長発行の仮軍民証を彼に手渡し、言った。 「我が艦が君を救助できたことをうれしく思う。そして、それはまた君にとって、二重の幸福であるはずだ」  艦長はにこりと彼に笑いかけた。 「我が大東軍邦は、開かれた自由の国家である。たとえ昨日《きのう》までの敵であろうと、真情をもって望む者は、決してその帰順の意志を妨げられることはない。ましてや、君は、清白なる異郷の民だ。つまり、我が軍邦内において生まれ落ちた赤児と同じ資格を有すると考えられて然《しか》るべきである。我が軍邦は、君を喜んで迎え入れるであろう。私は、そう確信する。そして君が、一日も早く、立派な戦士となって実戦場に赴《おもむ》けるよう、祈っている。だが、焦ることはない。戦線は広大で、しかも多彩だ。活躍の機会は、これからも、いくらでも与えられるはずだ。頑張《がんば》りたまえ!」  そんな言葉に送られ、|BR《ブール》少尉につきそわれて、|BC《ビーク》は上陸|梯子《はしご》を下った。  見上げると、気持ちがすくむ。  だからなるべく、足元だけを見るようにした。  港は全体が軍事施設の複合体だった。  幾重もの門が続き、いたる所に衛兵がいた。  通過の度に誰何《すいか》され、軍民票の提示を求められた。  正式の軍民票は、薄い金属の板である。  しかし、艦長の発行してくれた仮証は、容易に偽造可能なただの紙片だった。  その確認をめぐってひと悶着《もんちやく》起こりかけたが、少尉の保証でなんとか収まった。 「とにかく、一刻も早く登録局へ出頭した方がいい。さもないと、また無用のゴタゴタに巻き込まれる」  少尉に急《せ》かされ、|BC《ビーク》はわけも分からず、彼の後を追った。  最後の門をくぐると、すぐ目の前に巨大な建造物の基部が迫っていた。  そこに、いくつもの扉《とびら》が口を開けていた。 「こっちだ」  少尉と共に、そのひとつをくぐった。  そこにもまた衛兵が立っていた。 「軍民の新登録を行ないたい」 「捕虜《ほりよ》ですか?」  |BC《ビーク》をじろりと見て、衛兵が訊《き》き返した。 「いや、外民だ」  言って、少尉は、|BC《ビーク》の仮証を彼に示した。 「外民の場合も、一応、帰順宣誓を必要とします。八番機で、三十二層へ昇ってください。申請はそこで受け付けています」 「分かった」  |BC《ビーク》をうながし、少尉は歩きだした。  通路両側に小さな扉がずらりと並んでいた。 「これは、昇降機だ。これに乗って、上層階へ昇る」  少尉が説明した。しかし、|BC《ビーク》には何のことか分からなかった。  扉が左右に開いた。中は、五人ほどでいっぱいになってしまいそうな小部屋だ。  二人が入ると、扉が閉じた。  直後——ぐん、と突き上げられる衝撃がきた。 「わっ!」  驚き、|BC《ビーク》は思わずへたりこみそうになった。 「心配ない。すぐ上に着く」  少尉が彼をなだめた。  耳がツンと痛くなった。と、急に身体が軽くなり、小部屋の震動も止まった。  扉《とびら》が開いた。  |BC《ビーク》は外へ飛び出した。同じ通路である。その先に窓が見えた。  さっき、窓はなかった。そこは衛兵の立つ入り口だったはずだ。  |BC《ビーク》は窓に駆け寄った。  そして今度こそ、たまらず腰から床に倒れ込んだ。 「こ、これは……」  声が震えた。 「建物の三十二層まで上がってきたんだ。大丈夫だ。落ちやしない」  |BC《ビーク》は恐る恐る立ち上がり、もう一度窓の外を……窓の下を、のぞいた。  はるか下方に、街路が見えた。人間が動き回っている。その頭が小石ほどに見えた。  と、その時である。  突然、窓の外ですさまじい唸《うな》り声に似た音響が湧《わ》き起こった。  街路を行き交う人々が、一斉に走り出したのが分かった。 「空襲警報だ」  少尉が言った。 「しかし、本物じゃない。演習だよ。条約で、主要都市への直接攻撃は禁止されている。|SYG《サイガ》が空襲を受けることはあり得ない」 「空襲?」 「空からの攻撃のことだ。しかし、それはあり得ない。条約があるおかげだ」  少尉は繰り返した。 「でも……あり得ないのなら、なぜ?」 「緊張を保つためだよ」  窓の外を見渡しながら、少尉は言った。  何かが盛んに空へ向けて打ち上げられだした。  そして、炸裂《さくれつ》する。  その轟音《ごうおん》が、窓をびりびりと震わせた。 「対空砲火だ。たとえ攻撃されないと分かっていても、備えは常に必要なんだ。こうした演習によって、市民の心構えが引き締められる。そして、同時に、誰《だれ》もが前線兵士の苦労や、その華々しさを思い出すというわけだ」 「登録申請ですね!」  背後の声に振り向くと、そこに中年の女性が立っていた。  女性ではあるが、少尉のものとよく似た灰色の制服を身につけている。 「こちらへ——」  彼女が開け放ったままの入り口を指差した。  |BC《ビーク》と少尉は、彼女について、その部屋へ入った。  机がひとつ、それに椅子《いす》が数脚あるだけの殺風景な部屋だった。  壁際の棚《たな》に、紙の束がぎっしりと詰め込んである。  他には、机の上に、何か分からぬ、突起の沢山ついた大きな箱がのせてあった。 「お座りなさい。少尉も、どうぞ」  彼女は言い、机をはさんだ向かい側に腰を下ろした。 「捕虜《ほりよ》ですか?」  先刻《さつき》と同じ質問が繰り返された。 「いえ、外民です」 「どこの出身?」 「東方戦域外の未開世界からやってきた青年です」 「未開世界から?」  彼女は目を丸くして、|BC《ビーク》をじろじろと眺《なが》め回した。  そして、机の上の箱の突起を素早い指さばきでいくつか叩くと、うなずいた。 「だとすると、最低位教程からの下意識学習が必要ね?」 「そう思われます」  質問には全《すべ》て少尉が答えている。 「分かりました。別に問題はありません」  彼女はもう一度うなずき、少尉と|BC《ビーク》を見比べながら、続けた。 「基本教程までの下意識学習装置は、この登録局内にも用意してあります。しかも最新式ですから、ごく短時間で完了します。それさえ終えれば、すぐにも準兵訓練所へ赴いて、戦技教練に参加できます。では——」  彼女はまた突起をいくつか叩き、|BC《ビーク》に一枚の用紙を差し出した。 「ここに、署名なさい。同定用の文字は選択済みですか?」 「はい——」  |BC《ビーク》は彼女から、渡された筆記用具で覚えたての二文字〈BC〉をそこに書き込んだ。 「これだけ?」  彼女は軽く首を傾《かし》げた。  しかし、それ以上何も言わず、署名済みの用紙を受け取った。  そして突起を二か所叩《たた》いてから、立ち上がった。 「では、宣誓をお願いします」  少尉に背中を突つかれ、|BC《ビーク》も慌《あわ》てて腰を上げた。 「あたしが言う通りに繰り返してください。いいですね?」  |BC《ビーク》はうなずいた。 「私は、大東軍邦民たることを熱願し、以下のごとく宣誓する。ひとつ——軍民の理想、絶対自由の追求に邁進《まいしん》する。ひとつ——絶対自由を得んがため、私心はこれを滅却《めつきやく》する。ひとつ——絶対自由を守らんがため、常に決死を旨《むね》とする」  彼女の声を追いかけて、|BC《ビーク》はその文句を繰り返した。  しかし、自分で声に出したその言葉の意味がよく分からない。 「宣誓は終了しました。しばらく、ここでお待ちなさい。下意識学習装置の準備をしてきますから」  そう言い残し、彼女は部屋から出ていった。  |BC《ビーク》は不安になった。一体、自分は何を宣誓させられてしまったのか——  彼は少尉に問いかけた。 「今の……宣誓がよく分からないんです。どんな意味だったんですか?」  少尉は肩をすくめた。 「別に大した意味はない。ただの儀式さ」  そして、続けた。 「大東軍邦民の理想は、絶対自由の社会を実現することにある——これは、分かるね? で、その理想実現のために努力することを、君は今誓ったわけだ。それだけだ」 「え、ええ……でも、滅却する、とか……決死がどうの、と……」 「それは、つまりだ——」  少尉は|BC《ビーク》を正面から見つめ、説明をはじめた。 「人間が、本当の自由を実感するためには、どうすればいいかという問題なんだよ。人間は本来、それぞれ一人一人の存在としてこの世に生まれてくる。その一人一人が集まって、社会という�全体�を形成している。その社会において、自由を阻害《そがい》するものは何かというと、それは、生まれ落ちた時のまま持ち続ける�自分�という意識、即《すなわ》ち、自分一人に対するこだわりなんだよ。ちっぽけな、つまらない自分に対するこだわりが、実は社会において、その個人から自由の実感を奪い取る元凶になっている」 「……自由の実感……」 「そうとも。その実感を我がものとしたかったら、まず、そうしたこだわりを捨て去ることだ。それが�私心の滅却《めつきやく》�にあたる。人間一人一人は確かに卑小な存在だ。しかし、その卑小な一人一人が集まって、偉大な�全体�を形造っている。そこが重要なんだ。自分にこだわり続ければ、その自分はいつまで経っても卑小な存在でしかあり得ない。そして同時に、そんな卑小な存在にとって、絶対自由などあり得るはずがない。だから、無意味なこだわりを捨て、卑小な自分を拒否してそれを滅却するなら、その時、その個人は全体と一体化できる。考えてもごらん。その時自分はもう、偉大な全体そのものとなることができるんだ」  少尉は熱っぽく話し続けた。 「そこにはもう、不自由などという意識は生まれようがない。全体によって志向される絶対自由を、その者は享受《きようじゆ》することになる。全体の自由こそが、そのままその者の自由であるからだ。そして——」  少尉はこぶしを握り、それを力強く振った。 「そのようにして、全体の中で自由を得た人間にとって、もはや死など恐れる理由は全くなくなる。死に対する恐怖とは、つまり、自分に対するこだわりに他ならないからだよ。だから自由な人間は死を恐れない。そして、全体の自由を脅《おびや》かす敵に対して、常に決死の覚悟で挑《いど》むことができるというわけだ」  そこへ、登録局の女性がもどってきた。 「さあ、下意識学習をはじめましょう。それが済んだら、正式の軍民票があなたに交付されます。ともかく——おめでとう」  女性はにっこりと微笑《ほほえ》んだ。  第二十二話 弾丸軌道車  そこは薄暗い小部屋だった。  中央に、複雑な形をした、大きな寝椅子《ねいす》のような台がしつらえてあった。 「横になって。気を楽にして——」  登録係の女性が、頭をすっぽりと覆う金属製の帽子を|BC《ビーク》に手渡した。  その帽子からは、さまざまな色や太さのひもが垂れ下がっており、ひもの先は寝椅子につながっていた。 「それをかぶるのよ。大丈夫。危険は全くありませんからね」  言いながら彼女は、|BC《ビーク》のかぶり方を直し、そして寝椅子側についている何かの機械を操作した。  ブーンという虫の羽がたてるのに似た音がはじまった。 「ほんのしばらく、そのままでいてちょうだい。この下意識学習装置は、人間の記憶中枢に直接、必要とされる知識を沁《し》み込ませるための機械なの。危険は全くないのよ。ただし——」  横たわる|BC《ビーク》を上からのぞき込み、彼女はつけ加えた。 「新しい知識が、短時間で大量に注入される影響で、その人本来の過去の記憶や知識が、ぼやけたり、奥の方へ押し込められてしまったりすることは時々あるわね。でも、心配するには及ばないのよ。これから、あなたに与えられる知識だけで、あなたは充分、この文明世界に適応し、軍邦民の一人としてやっていけるはず。つまり、全く新しい自分として生まれ変わることができるんだわ」  彼女の言葉に、|BC《ビーク》は微《かす》かにうなずき返した。  それで、構わない——と彼は思った。  どうしてもとっておきたい知識や過去の記憶など、彼は持ち合わせていなかったからだ。  ブーンという音が、徐々《じよじよ》に高まりだした。  眠気を誘う音だった。  眠気……というより、それは気を失う感覚に似ているのかもしれなかった。  いつとは知らず、|BC《ビーク》の目蓋《まぶた》は下がり、そして閉じた……  …………  …………  目覚めは、唐突《とうとつ》だった。  いきなり、意識が引きもどされ、|BC《ビーク》は全身を一度激しく痙攣《けいれん》させて、目蓋を開いた。 「おめでとう!」  少尉がそこにいた。 「さあ、起きて」  登録局の女性係官が言った。  |BC《ビーク》は上体を起こし、彼女を見た。  そして、彼女のその制服と胸章から、彼女が第二線防郷団所属の三級軍曹であることを知った。  ただ自然に、そのことを理解したのである。  頭の中には、まだ混乱の余韻が残っていた。  しかし——分かる。全てが……ひとつひとつが明瞭《めいりよう》に理解できる。  その知識は、まさしく、今ここで、下意識学習装置によって植え込まれたものに違いなかった。  |BC《ビーク》はさらに顔を上げた。  入り口、扉《とびら》の上に�時計�が埋め込んであった。  それが時計であることを、|BC《ビーク》は�知って�いた。  時計は円形である。等分に、0から7までの目盛りが刻んである。そして中心から目盛りに向けて一本の針がのびている。その針の位置によって、�時間�を知るのである。  それらを全《すべ》て、|BC《ビーク》は�知って�いた。  その針の先は円の縁を、一日に二周する。  一日は十六時間……そして一時間は三十二分……一分は六十四秒に相当する。  そんな知識が、全く澱《よど》みなく、反射的に、�記憶�としてよみがえってくる。  |BC《ビーク》はただもう、自分自身に驚き、あきれ、そして少しおびえた。  それは——見も知らぬ自分だった。見も知らぬ知識と記憶を備えた自分だった。 「これが、あなたの軍民票よ」  軍曹が一枚の薄い金属板を|BC《ビーク》に差し出した。  板の端に細い鎖が通してあり、首にかけられるようになっている。 「今からあなたは正式に軍邦民の一人になったわけね。軍民票はいつでも肌身《はだみ》離さず持ち歩くこと。分かったわね」  言われずとも、|BC《ビーク》は知っていた。  この軍邦内において、軍民票を所持していない人間がいるとすれば、それは敵国人か、もしくは死体だ。  |BC《ビーク》は、軍民票の表面に刻まれている同定文字=番号に目を落とした。  |BC《ビーク》−308611・63 �308611�は、生涯《しようがい》変わることのない軍民としての同定番号である。�63�は彼の階級を示す。  階級は将軍から準兵まで、大きく六つに分かれている。そして、その六段階のそれぞれが、さらに三つの級で区分される。  即《すなわ》ち、�11�が最高位であり、|BC《ビーク》に与えられた�63�は最下位にあたる。  第6段階は準兵である。準兵はまだ正規の兵ではない。訓練が必要な、兵に準ずる存在である。 �63�は三級準兵である。  陸海空どの軍にもまだ属していない。  二級、一級と進んで、三級兵士に任ぜられる時はじめて配属が決まる。  つまり——  今彼の前に立つ少尉《33》も、そして女性|軍曹《43》も、二人とも彼の上官なのである。  |BC《ビーク》は跳《は》ね起きた。  そして二人に対し、敬礼した。 「ありがとうございました、少尉殿——それに軍曹殿!」  少尉《33》はちょっと苦笑気味に首を振った。 「気にすることはない。君をここへ連れてきたのも、軍邦の理想を一人でも多くの人間に分け与えるためだ。それがまた、軍民たるものの務めだからだ」  |BC《ビーク》はうなずいた。 「さあ、ぐずぐずしている時間はないはずよ」  軍曹《43》が壁の時計を見上げて言った。 「今からなら、四時八分発の西部戦線行き弾丸軌道車に間に合うはずよ」 「そうだ。君はまだ時計を持っていないんだね」  少尉《33》が携帯用の小型時計を自分の腕からはずし、準兵《63》|BC《ビーク》に手渡した。 「これは、わたしからの贈り物だ。訓練で挫《くじ》けそうになったら、それを見て軍民第一日目の栄光を思い出すんだ。頑張《がんば》れよ」  |BC《ビーク》は、それを押しいただいた。 「準兵訓練所は五駅目で降車してちょうだい。連絡を入れておきますから、教官が迎えにきてくれるはずよ」  軍曹《43》は、弾丸軌道車発着場の位置を示す地図を、|BC《ビーク》に差し出した。 「よし、発着場までは、わたしが送っていこう。お世話になりました、軍曹」  少尉は女性軍曹と敬礼を交わしあい、|BC《ビーク》と共に登録局を後にした。  昇降機で第一階層へ降下し、市民たちでにぎわう摩天楼《まてんろう》の底を三街区ほど歩いて、二人は超高速弾丸軌道車の発着場に着いた。 「では、君の武運を祈る」  少尉《33》に見送られ、|BC《ビーク》は軌道車に乗り込んだ。  彼が席に着いてすぐ、軌道車は静々と走り出した。  そしてたちまち速度を上げ、巨大な夕陽《ゆうひ》がまさに沈みかけているその先をめがけて、突進していった。  深い満足感に似た何かが、|BC《ビーク》の全身を浸していた。  窓の外に見える何もかもが、新しい。  超都市|SYG《サイガ》の摩天楼群は、すでに背後の地平線の向こうに没しつつあった。  この先——それを思うと胸が躍《おど》った。  だが……しかし……  それとは全く裏腹な感情が、|BC《ビーク》の心の奥の、そのまた奥でしきりとうごめいていた。 (……何だろう? なぜだろう?)  しかし、それを理解することはついにできなかった。  弾丸軌道車の疾走《しつそう》は続く。  一本の、ゆるやかに屈曲する誘導路が、その前方はるか彼方《かなた》へまで続いていた。  五駅目に到着した時は、すでに深夜だった。  乗降|扉《とびら》が開き、|BC《ビーク》は軌道車から足を踏み出した。  人影が四つ、闇《やみ》の中から現われて彼に近付いてきた。 「|BC《ビーク》−308611・63だね?」  一人が元気一杯の声で彼に呼びかけた。 「そうであります」  下意識に埋め込まれた知識に教えられ、彼は直立不動の姿勢をとった。 「おめでとう。心から歓迎する。君を一日でも早く実戦場へ送り出してあげられるよう、教官団は最大限の努力を約束する。だから君も、その持てる能力の全てを振り絞って、我々に応《こた》えてもらいたい」 「はッ! 力の限り、頑張《がんば》ります」 「よろしい! では、兵舎まで駆け足! 我々の機動車の後についてこい!」  そして、翌日から——  容赦《ようしや》を知らぬ猛烈な訓練が開始された。  が、|BC《ビーク》は挫《くじ》けなかった。  十二日後には二級準兵《62》に——そのさらに十四日後に、一級準兵《61》に進級が決まった。  そして、入所以来四十日ちょうどで三級兵士《53》に任ぜられた。それは実に、異例の短期昇格だった。  配属は陸軍と決まった。  そして、西部戦線へと送り込まれた。  そこでも、|BC《ビーク》はめざましい活躍を示した。  そして、さらに西へ——  憧《あこが》れの空中機動兵に選ばれ、飛攻艇《ひこうてい》乗りとなって、彼は転戦した。  その軍民票の階級番号は、次々に刻み直されていった。  そして、その数字が�41�、即ち一級曹長を表わすものに変わった時——  彼の軍民票には、同定番号の他に、軍邦戦士最高の栄誉とされる三個の≪戦鬼章≫が、くっきりと刻印されていたのである。  第二十三話 戦鬼兵団  その部隊は、戦鬼兵団と呼ばれていた。  正式には、空中機動|PMF《パムフ》87−第二分隊と名付けられていたが、誰《だれ》もが彼等を戦鬼兵団と呼んだ。  その理由は、部隊員全員が二個以上の戦鬼章を保持していたためで、隊長の|GBR中尉《ゴブル32》は八個、副官|BC少尉《ビーク33》は五個を、それぞれの軍民票に刻んでいた。  が、しかし——  そんな彼等の勇猛と戦技をもってしても、この状況を脱する望みは、まず絶たれたと考える以外になかった。  谷の前後は、敵大部隊によって、すでに完全に封じられていた。  敵の拡声器が、もう一時間以上にわたって、繰り返し降服を呼びかけていた。  全《すべ》ては、時間の問題だった。  二日間、あたり一帯は、容赦《ようしや》のない核砲撃にさらされた。  その放射能灰が、濃い霧をともなって、じわじわと谷の内部へまで流入しつつあったのだ。  部隊の兵員数は半減していた。  隊長|GBR中尉《ゴブル32》以下わずか十八名——  しかし、この谷に封じ込められているのは彼等だけではなかった。  約四百人の非戦闘員、女子供を中心とする居留民団の家族が、そこで恐怖に震えていた。  三日前、戦鬼兵団は、約千二百人の居留民を救出、護衛し、主力部隊が陣を構える東方高地への撤退《てつたい》を開始した。  が、敵の追撃は予想をはるかに上回る迅速《じんそく》さで、この集団に迫ってきた。  間断ない核砲撃に退路を絶たれ、さらに激しい空中からの銃爆撃が、居留民の生命を、何十人、時には何百人の単位で奪い去った。  そしてついに、彼等はこの谷へ追い込まれた。  包囲軍の数は、およそ二千と推定された。  ただの歩兵団ではない。彼等もまた、機動兵の部隊だった。多数の戦闘車及び飛攻艇《ひこうてい》を装備した正規師団に違いなかった。  その包囲は完璧《かんぺき》だった。  味方主力部隊との交信は核砲撃がはじまった直後に途絶した。  戦鬼兵団からの発信はことごとく妨害され、受信もまたままならぬ状態だった。  が、洩《も》れ聞こえてくる情報から判断するに、主力部隊司令部は、すでに、戦鬼兵団の残存性そのものを否定しているとしか思えなかった。  来援は、もはや望むべくもなかった。  |PMF《パムフ》87−2戦鬼兵団と居留民は、軍邦から見捨てられ、孤立していた。  今、彼等の生命に関心を抱いている唯一《ゆいいつ》の存在は、敵包囲軍だけだった。  そして——恐らく、あと十六時間以内に、敵もまた彼等を見捨てざるを得なくなるだろう。その時が迫っていた。  放射能灰を含んだ濃霧《のうむ》が、もうすぐ、ここを、不可避の運命で覆いつくす。  その運命から逃れ得る場所は、敵の防護天幕の内側以外になかった。 「……降服を重ねて勧告する……する……する……」  霧の向こうから、拡声器によって割れた谺《こだま》が、波のように寄せてくる。 「……戦闘員はただちに武装を解除し、居留民を誘導、脱出しなさい……さい……さい……」  声は続く。 「……すでに、全員を収容できる防護区画が用意されている……いる……いる……ただちに、勧告に応じなさい……さい……さい……」 「くそったれめが——」  砲座の下で、声がした。  |BC《ビーク》は防塵《ぼうじん》眼鏡を顔からはずし、声の方に身を乗りだした。  |GBR中尉《ゴブル32》だった。  鈍く光る襲撃銃《しゆうげきじゆう》|BW《バウ》の銃身を肩にもたせかけ、油断なくあたりに視線を走らせる彼の姿は、まさしく、そのまま戦場に棲《す》む一頭の鬼に見えた。 「だまされやせんぞ」  吐き出すように言って、中尉《32》は|BC《ビーク》を見上げた。 「来るなら来い、だ——そうだろう、|BC少尉《ビーク33》」  中尉《32》の、放射能に灼《や》かれた頬《ほお》の傷が、微《かす》かに歪《ゆが》んだ。笑っているつもりなのである。 「おまえさんが、その砲座で頑張《がんば》ってる限り、一兵だってこの谷へは突入できない。そうとも。それを知っているから、降服勧告などと馬鹿《ばか》げた罠《わな》を仕掛けてきやがるんだ」  中尉《32》は続けた。 「うっかりだまされて出ていってみろ、たちまち全員|嬲《なぶ》り殺しだ。奴等《やつら》の狙《ねら》いは分かりきってる。女だ。そうに決まってる。俺《おれ》たちの女が、奴等の狙いなんだ」  中尉《32》は自分で自分の言葉に深くうなずき、そして砲座の基部を平手で叩《たた》くと、大声で同意を求めた。 「来るなら来い、だ——そうだろう、少尉《33》」  |BC《ビーク》は微《かす》かに顎《あご》を引いた。  同意……したいとは思う。が、そうしきれない。  ここに、砲座がある。  彼等分隊に残されたただ一機の重飛攻艇後部砲座である。  そこに、八十八口径三連装|駆逐砲《くちくほう》が搭載《とうさい》されていた。対地/対人攻撃に無比の威力を発揮する強力な熱線兵器である。  この三連の砲口が、狭い谷の入り口を狙《ねら》い続けている限り、敵は、多大な損害を覚悟することなしに、突入を敢行《かんこう》できない。  まさしく、今——この砲座一基が、敵を食い止めていた。敵全軍と、この砲座一基が対峙《たいじ》していると言っても間違いではなかった。  とはいえ——  もし敵がその気になれば、砲座があろうとなかろうと、谷は五分以内に完全制圧されてしまうだろう。  しかし敵には、明らかにそのつもりがなかった。  突入にともなう犠牲を、敵はもはや必要とは考えていないのだ。  つまり——敵は、この戦闘がすでに終結したものと見做《みな》していた。  実際、敵はただ待つだけでよかった。  待つだけで、暗い霧が、全てを静かに終わらせてしまう。恐らくは、十六時間以内に……  |BC《ビーク》は、その霧をにらみつけた。  もうじき、この飛攻艇《ひこうてい》をさらに後退させなくてはならなくなるだろう。  すると、防護服に身を固めた敵歩兵が、同じだけ前進してくる。  それを繰り返していた。  もしも、この砲座さえなければ、決着はとうについていた。  嬲《なぶ》り殺しか……あるいは捕虜《ほりよ》か……どちらにしろ、決して受け入れやすい決着ではない。  が、しかし——  このままの対峙《たいじ》を続けても、やがてやってくる結末は分かりきっていた。放射能に灼《や》かれながらの悶死《もんし》——その結末が、十八名の戦闘員と、四百名近い非戦闘員を、音もなく押し包みつつあるのだ。  もしも……この砲座さえなければ…… (……もしも……)  |BC《ビーク》は激しく首を左右に振った。  が、その考えは彼の脳髄にしがみつき、簡単には振り落とせそうになかった。  裏切り……利敵行為……敵前逃亡……  戦闘員として、それは最も恥ずべき行動だ。  そんなことは、分かりきっている。  が、しかし、もうひとつ分かりきっていることがある。即ち、居留民団の全滅である。それを許していいのか——? 許すしかないのか——?  司令部の命令は、土地を追われた居留民団を救出、護衛して、安全地帯まで撤退《てつたい》せよ、というものだった。  彼等はその任務に、完全に失敗した。しかし、だとしても、居留民の生命を守るという最低限の義務が残っているのではないか——?  |BC《ビーク》の思いは乱れた。  霧の向こうから、また降服勧告の谺《こだま》が響き伝わってきた。  |GBR《ゴブル》分隊長は、それを罠《わな》だと断じた。  出て行ったら嬲《なぶ》り殺しだ、敵の狙《ねら》いは女なんだ、と——  しかし、たとえそれが罠だったとして……戦闘員全員が嬲り殺しの憂《う》き目《め》を見るとして……それでもなお、女たちの生命を、ともかくも救う道だけはあるかもしれない。  もしも……この砲座さえなかったら……  敵はただちに、この谷へ突入してくるに違いない。そして武装解除を果たし、それから、彼等の本当の目的を明らかにするだろう。  捕虜として保護されるか……暴行を受けるか……あるいは、嬲り殺しなのか……どうあれ、最悪の結果は同じだ。  ならば……少なくとも居留民たちに、死以外の可能性を与えることが、本来の任務なのではないか。  |BC《ビーク》の頭の芯《しん》が、ずきずきと痛みだした。  そこで、何かが闘っていた。  下意識学習によって叩《たた》き込まれた軍邦民たるものの鉄の自覚と、それ以外の何かが、激しくせめぎあっていた。  |BC《ビーク》はそっと頭を巡らした。  谷の奥から、襲撃銃《しゆうげきじゆう》を構えた仲間の一団が近付いてくるのが見えた。  そろそろ、この位置でも危険だ。  霧がもうそこまで迫っていた。  重飛攻艇を後退させる準備にかかろうというのだろう。  |BC《ビーク》は彼等に手を振り、援護位置につかせて、砲座から這《は》い出した。  そして、飛攻艇の操縦席に移動した。  素早く、車輪の制動を解除し、発電のため緩運転させていた補助発動機の動力を、主発動機の起動装置につなぎ換えた。  ボッ……ボッ……ボ、ボボボ……ブオン!  不安気にせき込みながらも、主発動機が点火した。  轟音《ごうおん》が谷を揺るがした。  叫び声が微《かす》かに聞こえた。  味方の襲撃銃から発射されたと思われる雷光線が、頭上をたて続けに横切った。  が、|BC《ビーク》は、それを無視した。  彼の心は決していた。もうそれを翻《ひるがえ》す余裕はなかった。  一気に、彼は、飛攻艇の主動力を開いた。  艇首がぐいと持ち上がった。  艇体が震えた。  急激に高まった主発動機の回転に応え、噴射口の再点火装置が作動した。  瞬間——首のへし折れそうな加速がきた。  それでも|BC《ビーク》は、操艇桿《そうていかん》を引き続けた。  地上が——みるみる遠ざかっているはずだった。が、彼には、頭上の密雲しか見えなかった。  その密雲もまた、核砲撃によって巻き上げられた放射能灰を大量に含んでいるに違いなかった。  飛攻艇の艇体と風防が、その影響をどの程度防いでくれるか、|BC《ビーク》には分からなかった。  分かりはしないが、突破するしかなかった。  雲が切れた。その上にまた、雲があった。しかしそれは、白い薄い、優しい表情の雲層だった。合間から、真っ青な空がのぞいていた。  |BC《ビーク》は艇首を巡らした。  西へ——  西へ向かうしかなかった。もう引き返すことは許されない。進むしかなかった。  が、その先に何があるのか——彼は知らなかった。  ここから先は、最終戦域と呼ばれていた。  その戦域においては、何もかもが未知だった。  その戦域こそは、戦争の最終段階——即《すなわ》ち、世界が破滅する場所とされていた。  そこにあるのは——ただ、破滅だけと教えられていた。  それでも、行くしかなかった。  |BC《ビーク》は、なおも高度を上げた。  そして地上をのぞき込んだ。 (…………!)  思わず、息がとまりそうになった。  眼下には、すさまじい光景が拡がっていた。  まさしく——そこは最終戦域に違いなかった。破滅だけが支配する世界に違いなかった。  |BC《ビーク》は目をそらした。  そしてひたすら、前方の空に目をこらした。  燃料計の針は、残量四分の一以下を告げていた。  経済巡航速度なら、五〇〇空程は飛べるはずだ。  が、主動力を絞る気にはなれなかった。  遠ざかりたかった。ひたすら、遠ざかりたかった。  裏切りの実感が、彼の精神を引き裂き、千切り、そしてなお踏みにじろうとしていた。  その実感に追われ、狩りたてられ、|BC《ビーク》は飛攻艇の主発動機を煽《あお》り続けた。  何もかも——秘《ひそ》かに意を決したその瞬間から——何もかもが、無我夢中だった。  そして、今——  彼はさらに、その夢の底へ向かって突進しつつあるような、ある種の安らぎと、そして裏腹の焦燥《しようそう》を感じていた。  だから、ただ、行く手を見つめ、操縦桿《そうじゆうかん》を握り続けるしかなかった。  ……どれくらい経ったろう……  いきなり、異音を聞いた。  主発動機の回転音が不自然に高まり、そして頂点を超えたかと思うと、今度は急激に落ちだしたのだ。  慌《あわ》てて燃料計を見た。  指針はすでに、表示盤の陰に隠れてしまっていた。  ゴン、ゴンと突き上げるような震動がはじまり、そして消えた。  発動機は停止していた。  ほとんど無意識の、訓練された操作で、|BC《ビーク》は艇首を沈めた。  滑空がはじまった。  そしてはじめて、|BC《ビーク》は地上を見下ろした。  いつの間にか——あのすさまじい破壊の跡は消えていた。  すぐ眼下は砂漠《さばく》だった。  しかし、地平線の手前に、野山が見えた。  なんとか——砂漠の端までは到達できそうに思えた。  艇の双翼は、弱い上昇気流を捉《とら》えていた。  緑の大地が、今やはっきりと視界に入ってきた。  はるか彼方《かなた》に、青い森に包まれた、ひときわ目立つ小高い三角形の山が見えた。  |BC《ビーク》は、ゆっくりと艇を回した。 (生きよう!)  瞬間、思った。  生きのびなくては、自分にそむくことになる。  あの裏切りは、まさしく、生きることの肯定から発したものではなかったか。  そんな自分の考えに、|BC《ビーク》は驚いた。  なぜなら、そうした考えは、絶対自由に基礎を置く軍邦の信念に、根本から反するものだったからだ。  自分という観念を捨てれば、人間は自由になる。そして自由な人間には、もはや死を恐れる理由がない。軍邦は、彼にそう教えた。  とすれば、彼はその自由を失ったことになる。そして、自分というものに還《かえ》りつつあるに違いない。 �自分�——  一体何が、彼から�自由�を奪ったのか。そして一人きりの�自分�に還った彼に、何をさせようというのか——  目の前に、青い、見も知らぬ大地が迫りつつあった。  第二十四話 時の泉  右足の傷は、やっとのことで癒《い》えようとしていた。  無動力の着地は、やはり訓練通りにはいかなかった。不整地である。着陸脚を使用するわけにはいかない。  |BC《ビーク》は胴体《どうたい》着陸を試みた。  艇の沈降はうまくいった。  が、対地速度を計り切れなかった。  艇は大地に叩《たた》きつけられ、ふたつに割れた。  傷はその時に負ったものである。  幸い、燃料が全く残っていなかったため、艇の爆発炎上は免れた。  野戦服を裂いて包帯を作り、添え木をあてて、なんとか歩ける格好にはなった。  後部砲座に、彼の襲撃銃《しゆうげきじゆう》|BW《バウ》があった。それを杖《つえ》がわりに、彼は一人、草原を歩きだした。  行く手、はるかに、青くかすむ三角形の山が見えた。  なぜか……その山容に心|魅《ひ》かれた。  なんとしても、そのふもとまでは行き着こうと心に誓った。  日が沈み、そして昇った。  その繰り返しが、十何回か続いた。  泥《どろ》をすすり、木の根を噛《か》んで、彼は進んだ。  川に行きあたり、喉《のど》を思う存分うるおしたのはいいが、渡ろうとして溺《おぼ》れかかったりもした。  甘い果実を腹一杯詰め込んだこともあれば、何日も、何ひとつ口にできないこともあった。  それでも、彼は進んだ。  そして、ついに、今やその青い山が、彼の目の前にそびえていた。  急な斜面である。  山肌《やまはだ》は一面樹木に覆われていた。  足の傷なら、もう心配はなかった。痛みは残っているものの、歩行を妨げるほどではなくなっている。  杖《つえ》がわりの襲撃銃に頼らずとも、時間さえかければ、登り切ることも不可能ではないだろう。  が——  彼はその気力を失いかけていた。  足ではない。耐えがたいのは、痛みではなく、渇きだった。  防水布を利用して作った水袋は、二日前に空になっていた。  そして、暑い日が続いた。  木の葉を噛《か》み、草をすすったが、役にはたたなかった。  喉《のど》だけではない。全身が干からび、今にもひび割れてしまいそうだった。  ともかくも、ふもとの森に足を踏み入れた。  さすがに涼風が木々の間を渡ってくる。  無駄《むだ》とは知りつつ草をしゃぶりながら、|BC《ビーク》はよろよろと森の奥めざしてさまよい進んだ。  その時である。乾ききった彼の鼻孔が、風に水の匂《にお》いを嗅《か》いだ。  そして、また……  間違いない。  思わず、呻《うめ》き声が洩《も》れた。  遮二無二《しやにむに》、草や枝を分け、彼は急いだ。  しばらく進んで——水音が聞こえてきた。  そして、人の声……それも、歌う女の声だった。  胸が苦しいほど高鳴った。  右足が無理な走り方で痛みだした。しかし、構ってはいられない。  襲撃銃《しゆうげきじゆう》をもう一本の足として、|BC《ビーク》は駆けた。  と、いきなり森が切れた。  目の前に——泉があった。  きらめく、清浄な水をたたえた、深い色の泉が目の前にあった。  歌声が、今ははっきりと聞こえた。  そして、彼は見つけた。  娘は裸だった。  岸辺に、彼女のものと思える長い衣が無造作に脱ぎ捨ててあった。  その娘が——歌っている。  優雅に水を分け、魚のように泳ぎ回りながら、歌っていた。  |BC《ビーク》は、動けなくなった。  声を掛けたい。が、その美しい歌声を遮《さえぎ》ることは、とてもできそうに思えなかった。  その歌声によって、彼は麻痺《まひ》させられているのかもしれなかった。  娘が身をひるがえす。  そして水中深く沈んでゆく。  その間だけ、歌声は途切れる。  が、その頭は、すぐにぽっかりと浮かんでくる。そしてまた歌声が続く。  どれくらいそんな光景を眺《なが》め、耳を澄ましていただろう。  ついに——  彼が望み、かつ怖れていた瞬間がやってきた。  娘が彼の気配を察したのだ。 「誰《だれ》? 誰なの……」  娘が叫んだ。 「誰《だれ》なの? ここへ来てはいけないわ!」  娘が泳ぎもどってくる。  ざぶざぶと水を分け、まぶしい裸身をさらしたまま、岸へ這《は》い上がってくる。  隠れていては、かえって無用の不安を与えてしまう。  |BC《ビーク》は茂みを押しのけ、一歩前へ出た。 「あっ……」  娘が息を呑《の》んだ。  そして、その場に立ちすくんだ。  |BC《ビーク》も動けない。どう切り出していいか、分からない。  目と目が合った。  娘が、細い声を洩《も》らした。  そして、いきなり叫んだ。 「だめよ! 来ないで……」  彼女の頬《ほお》がぱっと染まった。  自分が裸身をさらしていることを、やっと意識したらしい。  脱ぎ捨ててある衣に飛びつくと、それを頭からかぶった。  |BC《ビーク》はじっと動かず、待った。 「誰《だれ》なの……あなたは誰? どこから来たの?……」  娘は息を切らし、言葉を継いだ。 「ここは、あたしだけの泉、他の誰も、ここへは近付けない掟《おきて》よ。旅の方ね? だから、知らずにやってきたのね? いいわ……このことは誰にも言わない。たから、すぐに立ち去るのよ」  呆然《ぼうぜん》と、|BC《ビーク》は娘の言葉を聞いた。 「立ち去れ」と言われても、もう足が動きそうにない。 「……わたしは……」  必死で唇《くちびる》をしめし、|BC《ビーク》は訴えた。 「……荒野を越えてきた……水筒は、二日前に空になった……わたしは水が飲みたい……ただ、それだけが、望みだ……」  言いながら彼は、その娘から目を離すことができなかった。  もちろん、見知っているはずはない。  彼とは無縁の、はるか異郷の娘なのである。  にもかかわらず……奇妙な……そして、優しい懐かしさが、|BC《ビーク》の胸にこみ上げてくる。  遠い……昔……彼がまだ生まれたばかりの幼児だった頃《ころ》に見た夢……そんな……確かめようのない、切ない、どうしようもない感情が、次から次へと湧《わ》き出してくる。  しかし……そんなはずはない。  彼に、そんな思い出が残っているはずはなかった。  大東軍邦登録局で受けた下意識学習の影響で、彼の記憶の大半は、どこか心の闇《やみ》の奥へ閉じ込められていたからだ。  しかし……何かきっかけさえあれば、全《すべ》てが分かる……そんな予感がある。  もどかしい……余りにも、もどかしい。あふれでる激情の渦《うず》の中で、しかし彼は、そのわけを理解できない。  娘は、喋《しやべ》り続けている。  まるで喋りやめることを恐れるかのように、必死で訴えかけている。  この泉の水を与えることは掟《おきて》によって固く禁じられているのだと繰り返す。 「……分かりました、知らなかった……」  |BC《ビーク》は、答えるしかなかった。そして問い直した。 「……では、わたしが水にありつくためには、どこへ行けばよいか……それを教えては、もらえないだろうか……」  が、それに対して小さな声で返ってきたのは、酷《むご》い宣告だった。 「……ここから……半日……」  彼は呻《うめ》いた。  あと半日行かなくては、水場はないと娘は言う。  目の前には、澄み切った水をたたえる泉があるというのに……  |BC《ビーク》はうつむいた。  その水場まで、生きのびられる自信は、余りなかった。  が、それも運命なら、従う他はない。  自分を取りもどした瞬間から、彼にはもう自由がないのだ。  運命が、思うまま、彼を操ろうとしているのだ。  それが、彼に与えられた裏切りの罰に違いなかった。  |BC《ビーク》はゆっくりと顔を上げた。  そして娘を見つめ、言った。 「……わたしは、長い旅を続けてきた……だから、それがあと半日のびたところで、気にはならない……」  そう自分に言いきかせるように、彼はつぶやいた。  そして、思わず、言葉を継いだ。 「……ただ、この長い旅の末に、あなたと出会い、そして、別れねばならないことが残念だ……だが、しかたがない……」  |BC《ビーク》はもう一度、娘を見つめた。  胸の中ではなお、切ない思いが渦《うず》を巻いている。 (……行きたくない……別れたくない……)  が、|BC《ビーク》は、そんな想いを必死で噛《か》み殺し、娘に対して軽く頭を下げた。  それが、別れのあいさつだった。  襲撃銃《しゆうげきじゆう》にすがり、|BC《ビーク》は一歩、よろりと足を動かした。  その時である。 「待って!」  娘が声を張り上げた。  激しい感情を帯びた声だった。 「あなたを行かせてしまうわけにはいかないわ!」  後 話 雷王伝説  ……まだ、都を築こうと決意なされる前、雷王は、長いこと……長いこと……一人で旅を続けておられた。  雷王の名はまだなく、無名王の綽名《あだな》もなく、その時王は、ただ一人の、名を持たぬ、名を忘れた、流浪の青年だった。  しかしその手には、すでに王の標《しるし》たる雷杖《らいじよう》が握られていた。  その王が、とある村の、一軒の居酒屋に立ち寄られた。  そこには、酒精に魂をゆずり渡した一人の老人がいて、王にしきりと酒をせびった。  王は老人に自分の飲み物を分け与え、そして問うたという。 「この街の北にある街道は、なんと呼ばれているのですか?」  老人は答えた。 「セラファン街道じゃよ、若いの。その街道を旅しようというのかね?」  王はうなずいた。 「東から、わたしはやってきました。西へ進み続けるつもりです」  それを聞いて、老人は微笑《ほほえ》んだ。そして王に尋ねた。 「西へ……西へと進み続けて、一体、どこへ行くつもりなんじゃ?」 「分かりません」  王は答えた。 「とにかく、行ける所まで進み続けようと思っているのです」 「ならば、若いの。あんたは、あの街道が、どこからはじまり、どこで終わっているか、それを知っているのかね?」  王は首を横に振った。  すると老人は、奇妙な布切れを取り出して、王に渡した。  それは�エルヴァの道�と呼ばれる魔法の布だった。  その布は、ただの変哲もない、細長い布の切れ端にしか過ぎないのに、ひとひねりして両端を合わせると、まことに不思議な魔法をそこに引き出してくるのである。 「……街道も、このエルヴァの魔法のように、どこまでもどこまでも続いている。いいかな?」  老人は布をゆっくりとたぐりながら、説明した。 「だから、どこまで進もうと、あんたの旅に終わりはないというわけじゃ」  エルヴァの道は、果てしがない。表が裏に、裏が表に……決して誰《だれ》にも悟られることなく入れかわる。  だから誰も、その布の裏と表を言いあてることができないのだ。  その魔法が、王の青春の迷いを絶ち切ったと伝えられている。  王の旅は、それからしばらくして、終わった。  王はセラファン街道から程近い荒野に、その雷杖《らいじよう》を突き立て、そして高らかに告げた。 「ここに都を築く。誰《だれ》もが立ち寄らずにはいられないほどの、豊かで、美しい王都を建設する。それは、どんな旅人にも知れるよう、そして遠くからその姿が見えるよう、壮麗《そうれい》巨大な都市であらねばならない」  大建設が、こうしてはじめられた。  都は、まさしく、王の予言通りの姿となった。そして、ますます、この大地に広がっていった。  その繁栄は類がなく、いつかは世界全体が王都によって覆いつくされるのではないかと思われるほどだった。  が、運命の日かやってきた。  ある宴の夜、雷王を、一人の少年楽士が剣で刺し、傷つけたのだ。  少年は蛇《へび》のような奸智《かんち》と鼠《ねずみ》のようなすばしこさで王宮を脱け出し、はるか西方へと逃走した。  その剣のひと刺しは、もちろん雷王の生命にまでは届かなかった。  が、王の心のどこかに、ついに癒《い》えぬ傷を作った。  ある夜、雷王の姿が王宮から消えた。  雷王は何かを思い出したのだ。そう伝えられている。その何かを追って、旅に出たのだ、と——  どこへ——?  それは分からない。西へ——とだけ、エルヴァの道を辿《たど》って、はるか西へ——とだけ、推し計る者はいた。  が、王を追って旅に出た者たちも、未だ誰《だれ》一人《ひとり》としてもどってはこない。  王は、何を思い出したのか——?  呪術師《じゆじゆつし》たちはこう占った。  王は、エルヴァの道を絶ち切るために旅へ出たのだ、と——王が心の傷の中から見つけたのは、その魔法を絶ち切る不可知の秘法だったのだ、と——  そして、予言者たちは告げた。  王は還《かえ》ってくる。いつか……その目的を遂げて、この世界へもどってくる、と——  そして魔法の輪が絶ち切られたその時にこそ、永遠不滅の王都が、時の流れを知らぬ無窮《むきゆう》の帝国が、この世に実現されるのだ、と——  主を失った王都は、遂に名付けられることもなく、夢幻のごとく荒廃し、砂漠《さばく》に沈んだ。  しかし我等、王の帰還を信ずる民は、今もこうして、待ち続ける…… 角川文庫『時間帝国』昭和62年3月25日初版刊行